| 住吉の御田−大阪市住吉区− |
大阪湾に淀川、大和川の二つの河川が河口を開く。昔、少し上流で迂回していた大和川は藩政期に今の姿に変わり淀川の南にある。河内から亀の瀬を超えると大和(奈良県)。飛鳥京、藤原京、平城京の故地に通づる重要河川。その川に接するように住吉津(住之江)が拓け住吉大社が鎮座する。
古代の住吉津は難波津、御津とともに大津を成し、宮城や大寺が営まれた大阪上町台地の南端に位置し、松林の風にのって近くまで白波が打ち返す景に古人は「海浜の祠字、烟波を枕にす」と詠った。
住吉公園の西に聳える高灯篭は日本最古の灯台(創建は鎌倉時代)。大小さまざまの常夜灯の象徴だった。現在のそれは創建当時より2百bほど東に移され修理されている。再建当時の灯りの照度は80ルックス(明治末期)。高さ21b、12b四方の石垣上にたつ高灯篭は灯台としても機能した。
灯りは今、高層ビルによって遮られ、灯台機能は失われたが住吉っさんに参拝者をいざなう灯篭であることに変わりはない。
住吉浦に上陸した人々は、高灯篭に沿って参道を行き、陽が落ちて灯が入り、ますます喧騒さを増す六百基を超える常夜灯の放列に商都・大阪の繁栄を実感し、彼方の住吉っさんの太鼓橋めがけてひたすら歩いたことだろう。
常夜灯の題字は頼山陽、池大雅などの名筆の揮毫も少なくない。干鰯仲間、北国積木綿屋中、阿州藍玉大阪積等々それに名を刻んだ神社講中の石燈籠は、その巨大な燈籠そのままに日本の経済をほしいままにした巨商たちだった。備前岡山有志から陶製の狛犬の大物が奉納されている。慶応年間のもので四国の金比羅宮の狛犬とどっこいどっこいの巨大なもの。無論、備前焼きであろう。
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住吉大社は神功皇后ほか三神を祀る古社。参道を往き太鼓橋(反橋)をわたると奥から第一本宮、第二本宮、第三本宮が縦に並び、第四本宮が第三本宮の右手(南隣)に鎮座する。四社殿はそれぞれ孤立し、構造もほとんど同じ。妻入りの本殿に廻廊はなく板玉垣の外側を荒忌垣で囲み、四社殿を包む板玉垣の正面に四角の柱からなる住吉鳥居がある。拝殿は、第一本宮のが他の三つの拝殿よりやや大きく作られている。
| 住吉大社門前のこと |
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往古、住吉大社の門前は住吉浦に連なり、そこは難波津などに移る前は遣隋使、遣唐使の発着の港だった。年を経るほどに大社は浜から遠のき松が茂る海浜に参道が刻まれた。高燈籠の辺りに屋形船などを漕ぎよせて大社に詣でる者も少なくなかった。
江戸時代になると大社辺りに住吉踊の藁人形や蒸し芋、煎餅などを売る土産物屋はむろんのこと、岸和田、貝塚、堺方面から押し寄せる参詣の者には沖の白帆がちらちら見える住吉街道(紀州街道とも)が好まれ社参の道となった。道の両脇に高級料理茶屋が軒を連ね、その間、間で一杯飲み屋の掛茶屋(よしずをかけ茶菓子などを提供した)がにぎわった。門前では定期に「宝の市」がひらかれ、一昼夜に二万五千三百首を詠んだ井原西鶴の大矢数興行が行われるなど貴賤の分け隔てのない巷をなしていた。
社参のついでに掛茶屋でひと休み。一杯やるのも庶民の楽しみ。
細江川の御祓橋(大阪市住之江区)の袂に小野茶屋という掛茶屋があった。美しい茶屋娘が釜から湯を茶碗に汲み客にすすめる。ところが可愛さ余って悪ざれする者がいる。恐い兄やんをおいても改まらず、店の主は頭をひねって茶碗を柄の長い杓に乗せ運ばせた。客の手が動けば杓の湯が頭に被る。果たして悪ざれの予防策は的中し、よいことに杓を差出す娘の姿がなんとも可愛らしく茶店に立ち見がでるほど人が集まり大いに繁盛したという。
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住吉街道沿いの安立町(住之江区)に難波屋というあんころ餅で有名な掛茶屋があった。この茶屋に笠松というて地を這うように延びた背の低い、かたちの良い大行松が二本あった。樹冠33b、もう一つの方は27bばかりで樹齢400年ほど。広重の版画で知られ、狂歌に‘ひくふても名ははびこりてどこまでも高くきこえしなにはやの松’(蕪坊)と詠われたりもした。昭和10年、水害によって松は枯死したという。
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| 西鶴像(生国魂神社) |
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| 芭蕉句碑(住吉大社) |
住吉大社は国家鎮護の神、航海の神、和歌の神、武神として、平安時代にはるばる京都などから住吉詣が行われまた、天皇の行宮となることもあった。
住吉っさんは庶民の願かけとともに人々の集いの場でもあった。西山宗因が主導した談林俳諧(大坂)の巨傑・井原西鶴は貞享元(1684)年6月、住吉大社の社頭で京都・三十三間堂の通し矢に因み、一昼夜(24時間)で詠む句数を競う大矢数興行に挑み、二万三千五百句を詠んだ。句に、「俳諧の息の根とめん大矢数」などがある。独吟のスピードが速すぎて速記が間に合わず、一部の発句が五元集などに残るのみである。この興行は西鶴の自身の俳諧の息の根を止める覚悟を示したものであるとともに、「西国諸国ばなし」などの浮世草子(小説)への転向を強く意識したためにした住吉っさんへの願かけではなかったか。以降、大矢数の記録は破られることなく今に至っている。
西鶴ははじめ大坂・生国魂神社の社頭などで独吟興行を重ね、徐々に句数を上げ大和や日向、仙台の俳人と競い合い、時に越されることもあったが終に、未踏の記録をたてた。
大体、連歌、俳諧の本質は連衆による集団的芸術たる連句形式がとられていたため、西鶴と同時代に活躍した松尾芭蕉においても生涯、一巻の独吟連句も産んでいないし連衆・去来とともに西鶴の大矢数を批判した。
しかし、西鶴は、生活感情や観念的な言語遊戯の俳諧を批判しておこった新風談林俳諧の壮士だった。差しさわりのないテーマや技巧にこだわった表現手法にも限界を感じていたのか或いは新風談林俳諧の延長として一代男や諸艶大鑑の小説に長句と短句を繰り返し用いた散文形式の表現手法を編み出し終に、西鶴は連句の大意(テーマ)を作品全体にしみ込ませた壮大な市民社会を滑稽本に演出して見せたのだ。しかし西鶴は晩年また、俳諧活動をしている。天才にして闘争と安楽の難路を行きつ戻りつしながら一生、滑稽の笛を吹き続けた人物、西鶴こそ浮世の英傑であるだろう。
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松尾芭蕉の最晩年、故郷の伊賀上野を立ち木津川を下り大坂に旅した俳人芭蕉は元禄7(1694)年9月13日、住吉大社に参拝し‘升買て分別変わる月見かな’と詠うている(句碑左)。升は住吉の宝の市の名物、升酒でほろ酔い気分の月見であったものか。いやいや、体調を壊しまた前年、西鶴が逝った後、気を引き締めなおした芭蕉の句であったかもしれない。しかし芭蕉の体調は悪化するばかりで門人の之道は‘神のるす頼み力や松の風’と詠うて住吉大社に芭蕉の延年祈願に詣でている。養生のかいなく芭蕉は住吉詣から一月後、‘旅に病んで夢は枯野をかけめぐる’と詠じ没した。西鶴の逝去から一年後、芭蕉も50年の生涯を閉じた。
例年、6月14日は住吉大社の御田植神事(御田祭)の大祭日。御田植祭を関西では一般に、御田祭と言っている。住吉大社のそれは親しみを込めて`すみよっさんのおんだ`と大阪人はいう。
おんだは五穀豊穣を予祝(祈念)する祭。社殿や境内で行うところもあるが、住吉大社のそれは2反余の御田(神田)で斎行される。
おんだのはじめに神官によって田の清祓いが行わる。飾鞍に綿の花を着けた斎牛(但馬の2歳牛)による`代掻き(しろかき。まぐわかきとも)`が斎行される中、
祭の諸役が行列を組み神田周りの行路(あぜ道)に練り込む。行列は供奴、貝吹、風流武者、金棒、楽人、神職、八乙女、稚児、御稔女、植女、奉耕者、替植女(農家の成人女性など)、住吉踊(氏子の小中学生)の順で、神田周りを一周する。
植女は昔、新町廓の芸妓が奉仕した。衣装の絢爛さと凛とした物腰がこの祭りの品位を一層、際立たせている。花笠に廻し、飾りつけた綿の花は、舞台中央に据えられた天蓋(花笠)にも飾られ雷避けという。新町廓の揚屋(あげや。割烹料亭)は京の島原、長崎の丸山を凌駕する店構えで、太夫は遊芸のみならず高い学芸をあわせもち茶屋には出仕せず別格の格式。目をむくような花代もまた別格だった。
諸役が一巡すると、神田の中央に張り出した仮設舞台で植女と替植女が相対し、早苗の受渡しが行われすぐに替植女による田植が始まる。
田植が斎行される中、まず八乙女の田舞、御稔女による神田代舞が奏せられる。観覧者の目はしばし、舞台の舞に釘づけ。
神田代舞が終わると風流武者が紅白に分かれて陣鐘、太鼓、ほら貝などを打ちならし、六尺棒を打ち合う棒打合戦が斎行され、次に植女踊、住吉踊が奉納され、田周りでは小中学生による植女踊、住吉踊が奉納された。
これら御田植神事中、八乙女の田舞と住吉踊は芸系のふるさと遷移に注目すべきであろう。
田舞は八乙女(8人)が頭に菖蒲の花飾りを付けて舞う。日本書紀は天智天皇10(671)年5月、「天皇、西小殿に御す。皇太子、群臣宴に侍る。是に、再び田舞を奏る。」としるしている。田舞の起源を大陸に求めていないから、住吉大社の創建が神話時代に遡る来歴と重ねると、田舞の手振りと歌はひょっとして稲作にまつわる神事としてその始まりと相前後して創始された可能性もある。
舞は日本民族の豊穣への祈りの姿。だからこそ不変の神楽としてこの大社に存在するのだろう。遠目にも神楽を奏す神子の緊張感が伝わってくる。田楽との連想から田舞は平安時代ころに完成されたものにせよ、既述のとおり原形はもっともっとも古いものであろうと思われる。社伝は1800年の歴史があると説いている。
住吉踊もまた、住吉詣をうながし、本邦の津々浦々に末社ができ、特に海浜の守護神として営々と住吉信仰が息づいた証として注目されるべきであろう。戦国時代以降、住吉神宮寺の社僧によって、藩政期には願人坊という芸能家が諸国巡歴し住吉踊を披瀝して住吉代参の功徳を説いたのである。それら諸芸によって住吉信仰のみならず各地の浮流芸の発展にも貢献したことはいうまでもない。
御田祭の住吉踊では頭に一文字笠の周りに赤布を垂れた特異な笠をかぶる。装束は、白衣に黒の腰衣、白の手甲、脚絆(きゃはん)に白足袋、藁草。手に大きなうちわを持ち、音頭取の歌に合わせ、団扇を打ちながら跳躍して踊る。 音頭取りはてっぺんに紙垂をつけた長柄の笠の柄を割竹(ササラ)で叩きながら歌う。念仏踊りの芸系に属するものであろう。それにしてもこの種の行事で、これほど演者の多い芸能は植女踊とともに稀有である。これもまた近在の氏子の篤い住吉信仰の証であるに違いない。
まつりが終わる頃、田面にはツバメが飛び交い、かすかに田の草が浮き始めた。
祭り終いに、子供たちが公園で思い思いの姿で記念写真におさまり、冷めやらない祭りの余韻を松林に刻んでいる。門前の電停では昭和32(1957)年にデビュ-した路面電車(阪堺電気軌道モ501形)が就役50周年のプレートを架け停車中。この電車も大阪の古典だ。すみよっさんの一日がたおやかに移ろってゆく。
来月早々には、大阪市中の各社で夏祭りがはじまり、住吉大社の南祭でフィナーレとなる。−平成20年6月14日− |
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| 住吉の御田祭雑感 |
御田植祭は年始や田植時期(5、6月ころ)に行われる。
牛や農具を使って稲作作業の一部始終を実演することによって神霊に感染させる豊作の予祝行事。早乙女が鉦太鼓の音曲にあわせて田植を行う田楽の芸系に属する芸能である。
淡淡と農作業の模擬作業を行う御田から出産を演じたり、夫婦和合の描写を交えるものなどがある(文末の記事一覧参照)。枕草子の記事などから平安時代のころには大体、芸能の域に達する御田もあった。
住吉大社の御田の場合、大都会の派手さをウリにしたものと思うムキもあろう。田舞を奏する神子(巫女)を八乙女と称し、実際の田植は植女と称する芸妓(背景写真。今日では替植女)が行うのでそのような誤解もある。
住吉大社の御田は神代にも遡る相当古い歴史があり、神事として受け継がれてきた行事である。畢竟、東大寺の神宮寺手向山八幡神社の御田植祭では早乙女に巫女が充てられ、田植のしぐさを行う。住吉大社の御田においてももと巫女が田植を行っていたが、いつのころからか熊野比丘尼のような諸国を歩いて祈祷や勧進、遊芸を行う巫女(仮に「漫遊巫女」と称す。)に置き代わり植女と称されるようになった可能性もあるだろう。つまり早乙女の置き代えによって神社所属の本来の早乙女は八乙女(8人の巫女の意か?)として田舞を奏じ、田植は漫遊巫女たる植女へと分担が変わり、さらに漫遊巫女がいなくなると植女は遊芸の芸妓に引き継がれたと考えられないものか。
住吉大社の気が遠くなるような歴史のうちに御田植神事はある。「すみよっさんのおんだ」こそ古体を伝承する稀有な御田と言えそうである。
参考1 各地の御田祭 |
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参考2 祭
九州 福岡 博多祇園山笠 筥崎宮の放生会 玉せせり 玉垂宮の鬼夜 婿押し(春日神社) 博多どんたく みあれ祭(宗像大社) 小倉祇園太鼓
佐賀 市川の天衝舞浮立 唐津くんち
四国 愛媛 七ツ鹿踊り 南予の秋祭り 保内の四ツ太鼓 和霊神社の夏祭り
香川 牟礼のチョーサ 四国の祭り 梛の宮秋祭り ひょうげ祭り 小豆島の秋祭り
徳島 阿波踊り
中国 広島 安芸のはやし田 壬生花田植 豊島の秋祭り ベッチャー祭り 三原やっさ祭り 岡山 西大寺会陽
近畿・京都 湧出宮の居籠り祭 松尾祭 やすらい祭 木津の布団太鼓 祇園祭 田歌の祇園神楽 伊根祭(海上渡御) 三河内の曳山祭 大宮売神社の秋祭り 久世六斎(六斎念仏) 宇治祭 十三まいり 松尾祭 宇治祭 籠神社の葵祭り 本庄祭(太刀振りと花の踊り) 紫宸殿楽(ビンザサラ踊り) からす田楽 野中のビンザサラ踊り 矢代田楽 吉原の万燈籠 於与岐八幡宮の秋祭り 額田の奇祭 小橋の精霊船
大阪 八阪神社の枕太鼓 四天王寺どやどや 杭全神社の夏祭り 粥占神事 天神祭の催太鼓 生国魂神社の枕太鼓 天神祭の催太鼓 秋祭り(藤井寺) 住吉の御田 住吉の南祭 枚方のふとん太鼓 科長神社の夏祭り 岸和田のだんじり祭り
奈良 龍田大社の秋祭り 大和猿楽(春日若宮おん祭) 奈良豆比古神社の翁舞 當麻寺の練供養 漢国神社の鎮華三枝祭 飛鳥のおんだ祭り 二月堂のお水取り 飛鳥のおんだ祭り 唐招提寺のうちわまき 紅しで踊り 糸井神社の秋祭り 国栖の奏 西円堂の追儺会(法隆寺)
滋賀 麦酒祭(総社神社) 西市辺の裸踊り 多羅尾の虫送り 大津祭
北陸 福井 小浜の雲浜獅子 鵜の瀬のお水送り 富山 高岡御車山祭 |