祇園祭は祇園会或いは天王祭とも称し、京都の祇園・八坂神社の祭である。その昔は祇園御霊会とも呼ばれた夏祭りである。当時、疫病が頻発し、また貞観8(866)年、応手門の炎上事件に絡んで大納言伴義男らが本人否認のまま犯人と認定され伊豆国に配流。同年、清和天皇の外祖父であった太政大臣藤原良房が摂政に就任。義男と不仲で事件の犯人にされかかった右大臣源信(右大臣は藤原良相)は貞観10(868)年、落馬により瞑目。応手門事件の真犯人につき諸説あるが、二十歳にも満たない清和天皇の不安は極点に達したことであろう。そのような政情不安に覆われていた貞観5(863)年5月、今日のインフルエンザかと思われる疫病が冬期から春先にかけ猛威を振い、皇族、左大臣などが罹患、死亡する者が続出し朝廷は神泉苑(京都市中京区門前町)において御霊会を行ったのである。医学的知識の乏しかったころ疫病は非業の死を遂げた人々の御霊によって招来すると信じられ、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麻呂らの怨霊が祀られた。いわば政府主催の初めての御霊会だった。しかし、その後も疫病などによる社会不安は治まらず、朝廷のみならず社寺を交えた公私の御霊会が繰り返し行われるなか、祇園社(八坂神社)の御霊会は貞観11(869)年に始まった。祇園社は数多の御霊を鎮めるため、天竺出自の牛頭天王を播磨広峯山(兵庫県姫路市)から勧請し、全国の国数と同じ66本の鉾を祀り、洛中の男児らが神輿を神泉苑に奉じた。後に牛頭天王と同様に荒々しい霊魂をもつと信じられていた田の神であるスサノウノミコトが牛頭天王に習合された。
官祭から始まった御霊会の形態も田楽や猿楽を奉じて賑やかな行列をつくったり、長保元(999)年から大甞会の標山になぞらえたつくりものを曳き、風流の舞車をこしらえたりするように次第に祭の内容が豊富化していく。中世以降は、神輿の渡御に付随する山車や囃子などの風流や練りものが注目され、応仁の乱の後は京都の復興とともに華美をこらした山車・鉾などの行列や祇園囃子と呼ばれる囃子などが京都の町衆に受継がれ、祇園祭が夏祭りの典型的な形態として定着し、全国に広がっていった。今も京都市中には、30余の山車・鉾が保存されている。
祇園祭名物の鉾は四輪車の台上に囃子方を乗せる2階屋台をつけ、屋上に長い鉾や松を立てる。山車には台上に人形を乗せ、花飾りをほどこし実に華麗なものである。山鉾の台周りにはコブラン織やペルシャ渡来の緞通、或いは朝鮮錦をなどの胴掛、前掛、見送りをめぐらせる。月鉾では、前掛、後掛に華麗なペルシャ緞通を用い、胴掛はコーカサス緞通といった具合である。
祇園祭はそれ自体、京都の長い歴史を物語るものだ。祭りは吉符切(神事の相談)に始まり、奉告祭まで7月中、行事で埋め尽くされているが7月16日の宵飾り(宵山)、7月17日の山鉾巡行や神幸、7月24日の還幸などの行事がよく知られている。祇園祭は世俗に屏風の展覧会といわれた。町屋の屋内に毛氈を敷き屏風を立て、花などを飾る風がある。京都人は酷暑のなか山鉾の巡行を見物するより宵々山や宵山の夕べに灯りの入った山鉾を横目に、静かに町屋の屏風を見て回ることを祭の楽しみにした。屏風に限らず昔は蓄音機を飾り鳴らす家もあった。−平成19年7月− |