小野浦の風景−呉市豊浜町豊島−
小野浦(豊島)
小野浦(豊島)
 小野浦は豊島の東海岸に開けた港町。山腹の急斜面に人家がひらけ、背後のミカン畑はさらに傾斜を増し、山の頂上にある墓地が紺碧の空にとける。
 沖行くフェリーは上蒲刈島の大浦港に向かう定期船。対岸で大崎下島が長い島影を南北に横たえ、豊浜大橋が両島をつなぐ。
 小野浦の漁家の行動範囲は広い。北海道や能登半島、朝鮮半島にまで遠征した豊島船。船首にテントなどを張った特徴のある家船えぶねで今もタチウオやタイ、スズキを追って四国や大分、五島、壱岐・対馬にまで航跡を刻む船がある。豊島は県下第一の漁業基地である。
 瀬戸内海の家船は、かつては朝鮮近海や東シナ海に出漁した。明治期に忠海(広島県竹原市)の漁家が先鞭をつけ、マニラ沖に遠征する漁業団があった。そうした船が昭和5、6年頃には50隻を越えた。 しかし今、県外に出漁する船は、豊島の家船くらいではなかろうか。
 「遠くへ出かけると、急用ができたときなどは困るでしょう?」
 「夫婦船でタイ釣りに長崎まで行っていましたが、急用があれば飛行機や新幹線で帰ってきますので・・・」と、波止でテングサを干す漁家の主婦の顔は明るい。豊島の家船は、網漁をやらずもっぱら延縄と一本釣りにこだわり続けている。壱岐・対馬など日本各地に豊島漁法を伝えた漁民達。瀬戸内海の家船は、漁業史上の記念碑であろう。港から世間話に余念のないお年寄りの笑い声が聞こえる。
 アビ漁(イカあじろ)をしていたという古老は、「アビは伝馬船で近づくと逃げないものでした。タイやスズキがよく釣れましたが、アビに追われてイカナゴが大きなかたまりになって海上を飛び跳ねるときもありました。網で面白いほど掬えたものでした。エンジン船になりまして、アビが島に近づかなくなり、アビ漁は廃れました。雀、二窓などアビが寄る島や磯にはいまもアビ神を祀っております。」とのことである。

 戦前、或いはもっと古くから九州、瀬戸内海には家船で漂泊しながら漁撈を生業とする漁民がいた。北部九州の宗像の海人は漂泊を重ねながら全国各地に枝村を築いてきた。南九州や瀬戸内海においても家船で漂泊しながら全国の海浜に枝村を築いた。また、ある者は枝村からさらに内陸に向かい農耕民に転ずる民もいた。私たちはそのような海人の生活痕を各地に見出すことができる。上代の日本の開発は漂泊する海人によって担われてきた感すらするのである。
 家船を住まいとし漁撈をしながら漂泊し、子供は長子から順次、独立してゆき末子が親を養い相続する習慣をもつ漁民もいた。いわゆる末子相続によって漁撈の永続性を保ったのである。しかし、戦後の民法改正による戸主制度の廃止等によって末子相続の風も消滅してした。−平成18年5月−
秋祭りに帰港し、小野浦に停泊する家船
秋祭りに帰港し、小野浦に停泊する家船

豊島の秋祭り
櫂伝馬 例年、9月は豊島の秋祭り。今年の秋祭り(18年)は16、17日の2日間。例年、土、日の休日に行なわれる。初日は大太鼓を先頭にして獅子舞、神輿の順に貴布祢神社を出発し、門付けをしながら海岸端の道路をゆき小野浦に向かう。海上では、櫂伝馬船などが海から神輿の後を追う。
 豊島の神輿、獅子頭は少し小ぶり。神輿は勢いよく右周りに回転させ、終いに頭上に神輿をさし上げる。獅子舞は伴奏者の指揮で激しく舞うが演者が獅子頭をかぶることはない。港町の狭い道路事情から工夫されたものであろう。櫂伝馬(写真上)は浦々に入ると全速で櫂をかき、岸壁に衝突する寸前に楫を切り衝突を避ける。この動作が幾度も繰り返され、観衆は路上や雁木から拍手喝采し、祝儀を振舞う人もいて港まわりは実に賑やかである。二日目は小野浦の恵比寿神社を中心にして祭りは進み、初日より賑やかだという。かつては厳島の管絃祭のように大型の伝馬船を二艘繋いだ御座船に神輿を載せヤッコなども出て海上渡御したというが、いまは島に残る漁業後継者が少なくなり少し寂しくなったと古老は嘆く。豊島は、広島県下屈指の漁業の町。しかし、ここでも農村同様、過疎化が進行しているのである。
 浦々は、帰省した家船で埋まっている。祭りが終わるとまた、家船は九州、四国、山口方面へと魚群を求め出漁していく。。−平成18年9月−