九州絶佳選
福岡
筑前鐘崎の海女-玄海町鐘崎-
  ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神すめがみ
                            <万葉集>
 玄海灘に突き出た小さな岬・鐘崎は、古今の海上交通の要衝の岬である。
 那の津(博多)に或いは大陸に向かう船人は、陸につかず離れず玄海灘の荒瀬をゆき、こんもりと丸みのある鐘崎が目に入ると大いに安堵したことであろう。イヌマキの大樹が茂る常緑の岬には織幡神社(写真左下)が鎮座する。社は延喜式内社。ちはやぶる神の岬で崇められてきた社である。
 晴れた日に岬に立つと、東に深浜が、西に白砂のさつき松原が美しい弧線を描き、北西の海上に地ノ島、大島が浮かぶ。 崖下に目を向けられよ。岩礁に砕けた白波がきらきらとした光を放っている。 
 魏志倭人伝は、潜水によって魚貝を捕る倭の水人の習俗を伝えている。四周を海に囲まれたわが国の海は海底は起伏に富み魚貝の繁殖によい条件を備えている。鐘崎は倭名抄にみえる海部郷だ。日本最古といわれる海人族が住まいしたところ。
・・・好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之・・・今倭水人好沈没捕魚蛤・・・<魏志倭人伝>
 アワビ、イセエビなどの魚貝は、今ではなかなか口にできないものになったが、やっぱり祝膳を飾る私たち日本人の食文化に欠かせない食物。そしてまた、これらの魚貝は水没をして捕る昔どおり漁法がいまも守られているのである。
 近年、海女の装束もウエットスーツになり潜水の主力も海士に変わったが、かつて鐘崎の海女は、日本海はむろん壱岐、対馬、五島、朝鮮半島の南部にまで雄飛した。海女家族ははじめ小船で大海を渡り、寝泊りをしながら壱岐・対馬、朝鮮半島や本州沿岸で季節労働に従事していたが、やがて壱岐・対馬や日本海沿岸の各所に枝村をつくり定住する者もいた。北陸に足跡を刻んだ海女家族は、能登の輪島に枝村をつくり、舳倉島の入漁権を得たのである。以来、300年ほどにもなるという。
 もともと潜水技術に優れていた鐘崎の海女は、今から700年ほど前、対馬の守護代宗氏が鐘が崎を領有していた縁から対馬で漁業権を得て、アワビを捕り干しアワビにして、フカひれや干しナマコとともに俵物として中国へ輸出し換金した。家船で朝鮮半島に出かけた海女家族は、あまり魚を食べる習慣がなかった朝鮮の人々に漁獲法や料理法を教えたという。男はクジラを捕り、海女家族はやがて厳原近くの曲に枝村を営むようになる。壱岐の小崎、大浦(山口)、輪島などもそうした季節労働からやがて枝村ができたところである。
 鐘崎海女は日本の海女の発祥地とされ、潜水技術は九州一とたたえられた。潜水技術は韓国の済州島から伝えられたという伝承が鐘崎にある。済州島の海女もまた対馬、志摩、北海道に雄飛した人々であった。
 鐘崎の岬は、こわい響灘と玄界灘を分ける岬。速い潮流は航海の難所。遭難の恐怖が船頭の脳裏から消えることはない。
 岬の小夜形山に織幡神社が建っている。日本書紀は、応神天皇の41年に阿知使主が宗像大神に織女を献上したと伝えている。織幡神社は宗像族が斎祭った社である。
 宗像海人に抱く私たちのイメージには、倭国と朝鮮半島を往来する航海の民としてのイメージと潜水によってアワビやサザエを捕る漁撈民としてのイメージがある。さらに前者には朝廷の支配下で祭祀を執り行なう宗像海人のイメージが重なる。日本海の孤島・沖ノ島(沖津宮)に奉献された鏡、武具、工具、装身具など目を見張るような精巧かつ豪華なみてぐらの質と量からそのようなイメージが重なるのである。
 沖ノ島から出土した織機が宗像大社の神宝館に展示されている。前述の織幡神社は、織機がそのまま神社の名前になった珍しい社。これもまた、宗像の土地には、大陸からもたらされる織機等の先進機器の販売センター的な機能があったのだろう。宗像から九州は無論、全国に移出された経緯を示す社ではなかろうか。わが国は、銅、鉄の金属についても、その精錬技術を習得したのは5、6世紀といわれるほど遅く、タン鉄や武具などはもっぱら朝鮮半島からの輸入に頼っていたのである。宗像海人の航海者としての役割は、王権が畿内に遷っても永く続いたのである。
 万葉集に、大宰府が神亀年中(724~729年)に対馬への食料輸送船の柂師かじとりを依頼された宗形部津麿が老齢を理由にして、志賀村の漁師荒雄に頼んだという記事がみえる。8世紀においてもなお、宗像海人は航海従事者として働き、志賀村(島)の海人もまたこうした航海従事者としての顔があったことがわかる。
 津屋崎にある宮地嶽神社境内の円墳は、わが国最大規模の古墳である。飛鳥の石舞台古墳を凌駕するほどの規模である。横穴式古墳の石室が発見され、金銅装透彫冠など三百数十点の遺物が出土したところ。被葬者は宗形徳善と考えられている。徳善の娘・尼子娘あまこのいらつめは大海人皇子(天武天皇)の後宮に入った人で高市皇子の生母である。
 前方後円墳など48基からなる新原・奴山古墳群(写真右)から鉄製の刀、剣、ヨロイ、カブト、ノミ、キリ、カンナ、ノコギリ、鉄製品の加工工具など豊富な遺物が出土している。これらの墳墓は、いずれも航海を通じて富を蓄えた宗像海人の豪族墓であろう。
 織幡神社の境内の一角に鐘崎海女の記念碑(写真左)が建っている。鐘崎漁港では大漁旗がなびいている。宗像大社のみあれ祭で御座船にお供した漁船であろう。鐘崎は、今日においても漁業が盛んな町。鐘崎漁港の漁獲量は福岡県下で第1位である。
 鐘崎に「宗像市民俗資料館」(写真左)がある。鐘崎海女の展示資料も豊富である。舳倉島や済州島の海女関係資料の展示もある。鐘崎訪問の入口となるよい施設である。-平成17年-