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福岡 |
宗像族残照−福津市津屋崎− |
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山上憶良は、万葉集に志賀島の漁師・荒雄の海難を悼む歌を残している。事件の発端は、もともと太宰府から対馬への物資の輸送を依頼された宗形部津麿が老齢を理由にその役目を荒雄に再請負させたことによるものであったことが歌の注書きから解る。この事件などから私たちは、宗像族が海上輸送を担う海人族であったことを知ることができる。
津屋崎に新原・奴山古墳群(写真上下)がある。5、6世紀に築かれた古墳群とされている。約50基の古墳が玄界灘に向かって張出した山塊の尾根上に築かれている。累々と連なる古墳群は壮観なものである。宗像族の墳墓地として長期間にわたって営々として築かれた。数基の古墳から鉄製の武具に加えカンナ、ノミ、ノコギリ、斧などの鉄製品や製作道具類が出土している。宗像族は、地金の鉄ていを輸入し、当時旺盛な需要が生じていた鉄製品の製造販売にも関わっていたのであろうか。眼下に広がる水田の向こうに、玄界の大海原がみえる。
宗像神社が所在する釣川の流域から津屋崎の宮地嶽に至る地域は宗像族の勢力下。宮地嶽神社の奥の宮(古墳)は一族の族長墓であるのだろうか。石室は、高さ3メートル、奥行きは23メートルもある全国屈指の規模。被葬者は胸形君徳善と考えられている。徳善の娘・尼子娘は大海人皇子(天武天皇)の後宮に入った人で高市皇子の生母である。古墳は、宗像族の繁栄の極点を示すモニュメントといってよいだろう。
これらの古墳は律令制下における宗形郡領の大領(長官)等宗形一族の遠祖の墓であろう。大領の宗形鳥麻呂は、天平元年(729年)に神斎に供奉した功により外従五位上に、同じく宗形深津は、神護景雲元年(767年)に金埼の船瀬を造った功により外従五位下に叙せられている。宗像神社や筑紫への海上要路に当たる金埼(鐘崎)を抱える宗形は、いつも朝廷に注目される土地柄だった。大領は通例、最高位が七位くらいかと思われるので、異例の昇進を遂げた者もいたのである。−平成18年2月− |
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