高市皇子 |
持統10(696)年7月、高市皇子がなくなった。
‘かけまくも ゆゆしきかも・・・’と、長大な歌を詠じて、高市の皇子の薨去を悼んだ柿本人麻呂。得意とした長歌中、もっとも長大な歌を高市皇子に献じた人麻呂だった。
‘・・・皇子の御門を神宮に装いまつりて 使わしし 御門の人も 白たへの 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす・・・’と詠われた殯宮は埴安の池の畔にあった。皇子の宮殿だった。香具山の中腹から耳成山を望む眼下(写真左上)に埴安の池があった。池はいまはなく、哭沢の森が皇子とのゆかりをわずかに伝えるのみだ。藤原京が営まれ、大宮人が往来した古代の都も、いまは静かな田園の中にある。
高市皇子は天武天皇の皇子。母は筑紫の宗形君徳善の娘、尼子媛である。天武天皇の皇子中の最年長者。壬申の乱では近江進攻の総指揮をとった。藤原京建設の功労者でもある。高市皇子は太政大臣にまで昇任するが、生母が地方豪族出という生い立ちから、自身もそうした境涯に甘んじ帝位を嘱望することもなく天運のままに生きた人のようである。その生きざまがまた人麻呂の情感を痛くくすぐるところもあったのだろう。人麻呂は、ひょっとして高市皇子に近侍した舎人であったのかも知れない。尼子媛との縁から筑紫に遊ぶ日もあったかも知れない。都から突如、姿を消し、石見に現れる人麻呂の境涯もまた、高市皇子がそうであったように持統天皇の皇子たちとの関係において理解する必要があるかもしれない。
高市皇子への想いは、憶良の類聚歌林に引く反歌にもよく現れている。
高市皇子の病の快癒のため哭沢神社に神酒を手向けた檜隈女王。その甲斐もなく皇子は逝ってしまった歎くのである。いま、哭沢神社(写真上、中・下)は村の鎮守といった風情で鎮まっている。
泣沢の 神社に神酒据ゑ 祈れども 我が大君は
高日知らしぬ <檜隈女王> |
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