養老4(720)年、右大臣藤原不比等が薨去した。同年8月、元正天皇より後事を託された長屋王が右大臣に、知太政官事に舎人親王が任命された。藤原氏に偏った優遇政治から皇親政治へと一新され、長屋王政権は順風の門出だった。
しかしその9年後、大事が待ち受けていた。神亀6(729)年2月、従七位下漆部君足と無位中臣宮処東人から朝廷に‘長屋王が左道を学び国家を傾けようとしている’と申告があったのだ。朝廷は素早く動いた。その日のうちに長屋王の邸宅は取り囲まれ、多治比之池守(大納言)、藤原武智麻呂(中納言)、舎人親王、新田部親王らによる糾問が行われた。いずれも藤原氏寄りの人物。
翌日、聖武天皇の勅命により長屋王は自徑。妻吉備内親王と4人の王子(膳部王、桑田王、葛木王、鉤取王)も佐保に滅した。時に長屋王45歳。この事件に関与し、逮捕された者97人。うち7人は流罪。世にいう「長屋王の変」の結末だった。
長屋王は寿命を経ぬまま雲隠れされたと倉橋部女王(伝不祥。冒頭の和歌)は詠う。王は平群谷梨本の御陵(左:長屋王陵墓)で妻吉備内親王と相並び眠っている。
※1※2共に草壁皇子と兄弟 ※3 父文武天皇・母藤原不比等の娘宮子
長屋王は釈明の機会すら与えられず死を賜わり、平城京の露と消えた。事件の発端となった申告者の中臣宮処東人は無位から従五位下(貴族)に昇った。なんとも不可解な事件だった。
長屋王の変から4年間ほどは舎人親王らを中心に政権運営が行われた。天平3年(731年)8月には藤原宇合・麻呂兄弟が参議となり、四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)がともに議政官となった。参議は朝廷の枢機に係る案件を審議する要職。決定事項は知太政官事等を通じ上奏される。
天宝6(734)年1月には武智麻呂が右大臣に昇進し、朝廷の重要官職はほぼ藤原氏乃至舎人親王など藤原氏寄りの皇親が任命され、再び藤原政権は復活した。
天平9(737)年、武智麻呂ら藤原四兄弟が疫病によって死亡し、橘諸兄政権が発足した。政権は猫の目のように揺れ動いた。翌天平10(738)年、長屋王を死の縁に立たせた東人が大伴子虫によって斬り殺される事件がおこった。長屋王の変の後遺症は永く尾を引いていたのであろう。さらに続日本紀は中臣宮処東人を長屋王を誣告(虚偽申告)した者と記し、事件をかき消したようにも思われる。日本紀(前半部)の編纂は藤原仲麻呂が手掛けたとみられるからだ。私たちは続日本紀の記事の評価に相当、慎重でなければならない。
※4 父美努王、母橘三千代(後、不比等と再婚)
長屋王の変の実相
聖武天皇の治下、「長屋王の変」の実相はどうであったのか。改めて続日本紀をもとに振り返ってみよう。
長屋王は天武天皇の長子高市皇子(左:高市皇子所縁の哭沢神社)の子。母は天智天皇の皇女御名部妃。仏法に篤くその名声は唐土に伝わり、鑑真和上来日の動機ともなったといわれる人。一方、日本霊異記では寺院の炊事場に紛れ込み飯を請うた沙弥の頭を牙笏(象牙の笏)で打ち流血する騒ぎがあったと記しており、仏教界で王は嫌われていたとする見方もある。人物評は相反するものの長屋王は、天智・天武両天皇の孫という血脈から皇親勢力の頂点にいた人。ゆくゆくは父高市皇子のように太政大臣にと嘱望されていたとしても何の不思議もない親王だった。
時代を戻すと、神亀元(724)年2月、元明天皇(女帝)から継いだ元正天皇(女帝)が退位し、聖武天皇(首親王)が即位した。長屋王は右大臣から左大臣に昇任し、右大臣は空席のまま引き続き政権を担った。長屋王は反藤原の履歴のある人物。聖武天皇の母で文武天皇の夫人藤原宮子(不比等の娘)の尊称問題で反対の姿勢を崩さず、「大夫人」を「皇太夫人」と変えさせた前歴があった。藤原一族は長屋王の存在に暗鬱とした圧迫感を感じていたことだろう。
基王の夭折と安積親王の誕生
聖武天皇即位から3年余経った神亀4(727)年閏9月、聖武天皇の夫人安宿媛に基王が誕生。外戚・藤原氏は王の誕生に小躍りしたことだろう。生後僅か1か月余りで立太子。幼児の皇太子であった、皇太子は朝政に参加するため、慣例として過去、幼児を皇太子に立てることはなかった。父聖武天皇の立太子は14歳だった。なりふり構わない藤原氏の皇位継承の執念に驚き首をひねったことだろう。
※光明子とも。父藤原不比等・母橘三千代
不比等の妻三千代は阿閇草壁妃に仕え、聖武天皇の父文武天皇の乳母とされる人。不比等の後妻で先夫美努王との間に橘諸兄が生まれている。その後も累代の天皇に仕え、阿閇草壁妃が即位(元明天皇)すると橘姓を賜っている。また、不比等がその子孫のみ名乗り得る藤原姓を文武天皇から賜った折々にも不比等を手助けすることもあったとされる。しかし三千代は生涯、橘氏を捨てることなく、女官として正三位(正一位遺贈)にまで上り、朝儀で目にするわが子のような文武天皇の立ち居振る舞いに孫の基王の即位をダブらせたことであろう。
三千代は詠う。‘天雲を ほろにふみあたし 鳴神も きょうにまさりて かしこけめやも〈万葉集巻19−4235〉’と。天雲をほろにふみあたす鳴神よりも今日の天子様は物凄いと三千代は歌う。歌の天子は文武天皇以外にあるまい。三千代はわが国の政治史上、もっとも目立たない最強の女性であったかと思う。
不比等の父中臣鎌足の詠歌に ‘我れはもや 安見児得たり 皆人の得かてにすとふ 安見児得たり’ というのがある。安見児は采女の名。当時、采女は天皇の所有物とされ御饌に奉仕した。鎌足は得ようとして得られないという安見児を得たりといかにも愉快な歌が万葉歌に採られているが、鎌足に何か良いことがあるかも知れないという下心も否定できないだろう。
鎌足の子不比等もまた采女三千代を得ている。三千代は既述のとおり阿閇草壁妃に仕えた女官。不比等と二人三脚のいわば共働き。三千代は天智・天武系天皇や皇親に近く、力添えが得られるかも知れないというという下心が無論あっただろう。
それにしても人の運命などよくわからないものだ。基王は生後、1年を経ずして没した。翌神亀5(728)年、今度は聖武天皇の夫人県犬養広刀自に安積親王が誕生した。安積親王が次期天皇となる可能性が高い。藤原四兄弟は行方の不安に狼狽し、頭を抱えたことであろう。しかし天皇の外戚でありたいという思いは抑えがたく、藤原氏は次々に謀略を編み出し、実行していく。
安宿媛の立后計略
藤原氏の安積親王計略の要は、聖武天皇の夫人安宿媛を立后し、安積親王の立皇太子を回避し、安宿媛に皇子ができるのを待ちその間、皇后自身の皇位継承(中継ぎ)もあり得るという情況を現出させることだった。
しかし皇族以外の臣下の立后例はない。長屋王の反対は必定。計略が明るみになれば長屋王を支持する氏族の不満が高じ、内裏の襲撃も誘発しかねない。不比等薨去後、藤原一族に権臣を欠く状況のもと、性急に事を急げば仕損じることもあり得る。究極の選択の前途は多難と思われた。
したがって安宿媛の立后を成就させるためにもごく自然に、その態勢を整える必要があった。
一つは、大内裏特に内裏への襲撃を想定し警備や有事の鎮圧、場合によっては事前に策謀者を捕縛する藤原氏の寄りの官司の設置が不可欠であった。
一つは、長屋王と親交があり古来、武をもって佐伯氏とともに天皇に仕え、5衛府に配属されていた大伴氏一統の氏上大伴旅人を排除し衛府の動きを制御する必要があった。
一つは、上の二つの計略を講じた上、安宿媛の立后に反対するであろう岩屋王を斃すことであった、と思われる。
大伴旅人の左遷と中衛府の設置
神亀5(728)年8月、大内裏の警護等を所掌する中衛府が置かれた。定員300人。衛門・左右衛士・左右兵衛の5衛府がすでに存在しており、中衛府の新設はそれら官司の任務と完全にバッティングする。内裏が襲撃された場合、その大半は大伴・佐伯両氏所縁の衛士が反藤原に転じかねない懸念もある。天皇・皇后等の親衛隊として別途、藤原氏寄りに機能する官司(中衛府)が必要だった。官司は天皇の住居部に当たる内裏の南、左右に配置された。
中衛府は5衛府と同様、四等官官司で長官を大将、次官を少将と称しかつ、大将は5衛府の督より上に置き、藤原氏の威風をも内外に示す親衛隊だった。
中衛府の新設は秘かに進められたことだろう。大伴氏が計略を知ると氏上旅人を大いに刺激し、安宿媛の立后は到底、賛意が得られそうにもない。おりしも、朝鮮半島の外憂などにかこつけ、旅人は太宰府帥へ遣られた。実態は左遷人事だった。首謀者は長屋王の変後に大納言に昇進した中納言藤原武智麻呂であろう。
旅人の左遷時期について、続日本紀等に発令日の記録がなく特定できない。国史に残さないほうがよいとの判断が編纂者たる藤原氏側にあったと思うが、神亀5(728)年とする説が一般的と思う。
しかし、中衛府の設置に伴う令制の変更作業や大内裏の整備期間などを考えるとそれほど短期に済むわけでもない。神亀4(727)年に異動発令があったのではないかと思う。
長屋王の変
旅人を左遷し、藤原氏の親衛隊・中衛府を設置し、計略実行の準備は整った。冒頭に記載した経過を経て捕り物劇は終息し、神亀6(729)年2月、長屋王は自徑し果てた。聖武天皇の夫人安宿媛は光明皇后となった。臣下初の立后であった。(冒頭参照)
この事件について疑問が2つ浮かぶ。一つは朝廷へ長屋王謀反の申告した中臣宮処東人ら2名の動機がよくわからない。もう一つは長屋王は本当に自徑したのか否かという疑問である。
前者の申告について一人は無位、一人は七位下の人物であった。特に無位の東人は長屋王に仕え恩遇を得た人物。姓から中臣氏所縁の人物であるらしくまた位階の付与を約束したふしがあり、藤原氏が仕組んだ芝居ではなかったか。名もない卑官の申告を真に受け、ろくに調べもせず新設の中衛府を含む6衛府の衛士に包囲させ、藤原氏寄りの権臣を動員して糾問するという事態は尋常ではない。橘奈良麻呂の乱の終息がそうであったように糾問、尋問にこと寄せて衛士の拷問によって叩き殺された可能性なしとしない。そのための中衛府ではなかったか。
長屋王を排除するストーリーに従うならもともと申告、糾問・尋問などは芝居。長屋王を斃せば事は住む。そのための中衛府ではなかったか。一件落着後、案の定、東人は貴族待遇(五位)に昇進しまた、長屋王邸包囲の指揮は宇合が行い、糾問に中衛府大将藤原房前が加わった形跡がない。うがった見方をすれば中衛府大将の房前を差し置いて宇合が指揮し、中納言武智麻呂が糾問に加わっている。たぶん房前が固辞したものと思うが、この違いが出世競争において武智麻呂に先を越される分かれ目であったと考えられる。
大伴旅人の和琴進上
中衛府の設置や左遷人事について藤原氏の策謀の匂いをかぎ分けられない旅人であるはずはない。中衛府が創設され、長屋王の変が仕組まれ天平29年2月、長屋王は逝った。
太宰府の大野山の麓で、大伴旅人の威信は傷つけられ落ち込み、悲嘆にくれ疎外感にさいなまれる旅人がいた。それを忘れるかのように筑紫詩檀を形成し、梅花の宴を催し時には玉島川で神仙趣味に耽り異郷に癒しを求めることもあった旅人。
旅人は太宰府帥在任中、中衛府大将藤原房前(従4位上)に和琴とともに和歌二首を贈り、「天平元(729)年10月7日附使進上 中衛高明閣下謹空」と記している。房前は養老元(717)年に朝政に参議し、兄の武智麻呂を凌ぐ藤原氏のエースであった。旅人は年若く息子のような房前をもちあげ、こう歌っている。
問わぬ 木にはありとも うるはしき 君がたなれの 琴にしあるべし<万葉集 巻5−811> |
歌は、長屋王が自徑し、その数か月後の天平元(729)年8月、安宿媛が立后(光明皇后)した直後に房前に贈ったもの。
藤原四兄弟中、房前とは在京中、朝政の参議を通じ顔見知りの仲。敵味方はあるにせよ房前は策謀を好まず、交際を求める抑制のきいた紳士であったのだろう。だからこそ旅人は、房前の栄達を願って和琴を贈ったのだろう。
藤原氏の計略どおり光明皇后が成り、もはや壊しようのない現実を前にして、君を立派な人の側に仕えさせてあげましょうと面白く詠う陰に、やっぱり旅人の打ちひしがれた蒼白の顔がちらちら見え隠れする姿が浮かぶ。同年11月、房前は和歌1首を添え旅人に返翰し、謝意を伝えている。
問わぬ 木にはありとも わがせこが たなれのみ琴 つちにおかめやも<万葉集 巻5−812> |
歌に、「…土に置かめやも」と旅人の心情をくんでいるのは、旅人の「…琴にしあるべし」の祝辞への答礼であろう。この辺りに房前の旅人に対する心づかいが見てとれ、兄武智麻呂を凌ぐ評価を受けていたのだろう。
病の床にあった元正天皇が長屋王とともに、兄の武智麻呂ではなく房前を枕元に呼び寄せて後事を託し内臣としたのも理解できる。房前は官位において、すでに武智麻呂に先を越されており、大臣になることなく四兄弟とともに天然痘(疫病)に倒れ天平9(737)年4月、54歳で没した。
大伴旅人の遺言と稲公、古麻呂の下向
天平2(730)年2月(聖武天皇治下)、平城京を立って標高200メートルほどの周防の欽明路峠を行く大伴稲公(いなきみ)と大伴古麻呂(こまろ)という官人がいた。二人は脚に痩(腫れ物)が生じ重態に陥った太宰帥大伴旅人が遺言したいと朝廷に申し出て、勅許によって驛馬の使用が許され大宰府に向かう途上にあった。
平城京から太宰府まで約600キロメートル。二人は奈良の都をたって7、8日のうちに欽明路にさしかかり、太宰府までもうそう遠くはあるまいと峠で互いに安堵の表情をうかべ一息ついたことだろう。しかし、二人の氏上旅人が重態というただならない事態に言いようのない緊張と不安があったこともまた事実だろう。
重態に陥って死を覚悟した旅人。まだ幼さが残る嫡男家持(13歳)の行く末や、己が命の絶えたおりには先年亡くなった妻大伴郎女に替わって都から西下してきた大伴坂上郎女(旅人の母違の妹)を刀自(女の氏上)にと、息絶え絶えに様々の思いが去来していたことだろう。
旅人の病状とその経過を記した資料は、万葉集詠歌(巻4‐566百代・567若麻呂詠歌。見舞いに訪れた驛使(稲公、古麻呂に贈る歌)に付された原注のみ。それによると旅人の病は数十日のうちに平復したとある。驛使の稲公と古麻呂の二人は、夷守の驛家(福岡県糟屋郡多々羅(良)辺りか)で大伴百代、山口忌寸古麻呂、家持(旅人嫡子)らの見送りを受け、都へ帰ったことがわかる。
病床の旅人の心境を推し量ることはできないが、臨終を覚悟した旅人はなぜ稲公と古麻呂を指名したのか、遺言は何だったか、疑問は尽きない。家持を傍において、二人に大伴一族の決起を滲ませたかと思ってもみる。
顧みれば、養老4(720)年、廷臣最高位の正二位右大臣藤原不比等が薨去した折、旅人は征隼人時節大将軍として西海に在った。廷臣最高位となり都に呼び戻された旅人は藤原氏の計略も判然としないまま左遷された。三千代と二人三脚で内裏をバックに権力を溜めた権臣不比等を偏視し、長屋王や橘諸兄などと好を通わせた油断が旅人になかったとはいえない。自身は都から締め出され、長屋王は自徑した。藤原氏の策謀が透けて見えると、なにくその思いが筑紫に遣れた武人旅人になかったとは言えない。枕もとの稲公、古麻呂、家持に切々と遺言を語りかけたことだろう。
大伴稲公、大伴古麻呂の正体
旅人の弟に宿奈麻呂、田主がいる。万葉集の詠歌から推し、いずれも心優しい人物にみえ、旅人の遺言を聞く力量、体力ともに十分あるとは思えない。
旅人に指名され太宰府に向かった人物は大伴稲公と大伴古麻呂の二人。稲公は旅人の母違いの弟で母親は石川内命婦で庶子。大伴坂上郎女とは弟妹。生年不祥。官職は右兵庫助、従六位下相当の卑官。武器庫の管理などの仕事をしていたのだろう。正三位の旅人よりだいぶ若く、50歳そこそこの年齢かと思われる。
もう一人、旅とは鋭気に充ちた古麻呂を呼び寄せた。稲公に同道した古麻呂は治部少丞。従六位上相当職の卑官。古麻呂の父親は不祥。旅人の弟の大伴宿奈麻呂、田主説がある。件の万葉集詠歌の原注をなぞると、「…庶弟稲公、姪胡麻呂欲語遺言者(…庶弟稲公、姪胡麻呂に遺言をば語らんと欲す)」とあり、古麻呂は単に旅人の姪(古代の姪は甥を表す)と書かれているのみでだれの子であるか不祥。父親が稲公以外であれば特記されると思われるが、原注の書き方からみて古麻呂は稲公の子と考えられる。位階を比較すると親子間で拮抗している。官司の「考」(勤評)の影響かと思われる。
その後、稲公は続日本紀によると衛門大尉、因幡守、上総守を経て、最終官職は大和国守(従四位下)。
古麻呂は左小弁、二度の遣唐使(二度目は副使)、左大弁、陸奥鎮守府兼将軍、陸奥按察使などを歴任。正四位下。唐から大乗法典を本邦に伝え、鑑真を平城京に導き帰還した。唐にあった折、玄宗皇帝朝賀の席次につき本邦が新羅の下におかれ抗議し、席次を変えさせた武勇伝が続日本紀にある。精悍で有能な官僚政治家を思わせ50歳ころ正四位下左大弁に就いている。橘奈良麻呂と親交があり反藤原の壮士であった。
旅人枕元で二人は嫡子・家持とともに、神妙な面持ちで遺言に聞き入ったことであろう。
大伴古麻呂のその後
橘奈良麻呂の乱
旅人の兄弟は大方、稲公のような穏便な生涯を送っている。旅人が稲公を呼び寄せたのは、大伴一族の命運を古麻呂と嫡子家持にかけ、稲公は二人の後見人として適切と認めたのだろう。
しかし、天運が尽きたとはこのことだ。古麻呂は、平宝字元(757)年、橘奈良麻呂を首魁とし道祖王、黄文王らとともに、橘諸兄を排し独裁体制を築いた藤原仲麻呂のの排斥を企てたが、中衛府舎人上道斐太都が藤原仲麻呂に密告し事前に発覚し、古真呂らは逮捕された。
続日本紀は、首謀者たちは「杖下に死す。」と記録している。拷問の末古麻呂らは杖で叩き殺されたのであろう。流罪に処せられた者は440人を数え、未聞の惨事となった。世にいう「奈良麻呂の乱」の結末だった。
しかしなぜか奈良麻呂の死は続日本紀に記録されていない。奈良麻呂の死後産まれた子が藤原体制に組み込まれた故であろうか。
※藤原仲麻呂を殺害し、皇太子(大炊王)を退け、光明皇太后の宮を包囲して驛玲と天皇御璽をとり、孝謙天皇を廃し、塩焼、道祖、安宿、黄文の四王のなかから天皇を選ぶ計画
この乱は仲麻呂の専制体制に対する批判からかなり以前から囁かれていたようである。天平勝宝元(749)年9月、光明皇后のために中宮職とは異なる紫微中台を設置し、大納言仲麻呂がその長官たる紫微令に就いた。斐太都の密告の一か月ほど前の宝字元(757)年6月9日、仲麻呂は諸氏の集結や兵器の集積など五か条の禁制を出し、さらにその1週間後に奈良麻呂を兵部卿から右大弁に、古麻呂に陸奥按察使兼鎮守将軍に配置換えを行ない手足を削いだ。天皇の外戚としての立場や太政官の官司の改廃や人事等を通じ、敵対勢力の力を削ぐ手法は長屋王の変と相似通っている。
孝謙天皇は「謀反の噂があるが国宝にそむくことはならぬ」と宣命を発出しまた、奈良麻呂・古麻呂らへ思いとどまるよう説得を行った。光明皇太后は右大臣等上級官人に対し「皆、明い浄い心で天皇に仕えるよう」説示を行ったが古麻呂の態度が改まることはなかった。
藤原種継暗殺事件(大伴家持、継人の死)
大伴旅人の左遷から50数年後。延暦4(785)年9月23日、長岡京で藤原種継が暗殺される事件がおきた。容疑者で首謀者の大伴古麻呂の子継人は逮捕され取り調べを受け、「家持から種継暗殺を持ち掛けられ、大伴・佐伯氏と話し合って、皇太子早良親王に報告したうえで決行した。」と自供した。即日、
首謀者の継人、同竹良、佐伯高成ら6人と射手の衛府舎人2人が斬首に処せられ、大伴家持は事件前の8月28日に死んでいたが官位を剥奪(徐名)され、早良親王(皇太子)は流刑(配流中,食を断ち死去)、このほか五百枝王、紀白麻呂ら6人が流刑に処せられた。早良親王は桓武天皇の弟。早良親王に代わって桓武天皇の嫡子の安殿親王が皇太子に立てられた。
※正三位中納言兼式部卿 造長岡宮使 藤原式家宇合の孫
事件当時、家持は東宮大夫(東宮坊は皇太子・早良皇太子の家政機関)。継人は、家持に種継暗殺を持ち掛けられたと自供している。首謀者の一人佐伯高成などが東宮防の官人であったことや家持が早良親王の教育に当たっていたことなどを思うと家持が種継暗殺の主犯と思われないこともないが、齢68歳の家持にもう戦闘に加わる意思はなく、ただただ藤原氏の行いを良しとせず大伴の美意識を益荒男にかけたのだろう。それは旅人の枕元で聞いた遺言と異なるものではなかったと思われる。
早良親王は食を断ち自害した。死をもって真情を示しておりまた、皇親が臣下を暗殺することは考えづらい。親王はシロと思いたい。
家持は武人であり歌を詠み晩年、東宮大夫に就くなど教育者としての顔がある。当時、官僚社会に位階制があり、当人の位階に沿い相当職に就くことができるが、試験制度も設けら登用された。しかし実際は唐制をまねた蔭位の制があり藤原4兄弟のように公卿の子は21歳ほどにもなれば五位相当職の貴族として出発する者もいた。職の選択も家系が武人の者は兵衛府など武門の官司に採用されるなど未だ氏族政治から脱皮できていなかった。信賞必罰も著しく、敵対勢力の首魁が天皇を呪詛などするだけで謀反とみなされ死罪の覚悟がいる野蛮な時代を容易に変えることができない時代が長く続いた。
大伴家持は伴造系氏族。金村以来、武門の名族としてその名を国史に刻んだ。しかし、中臣鎌足とその子藤原不比等が朝廷を席巻し、天皇の外戚に拘りその権威のもと名を成し千年にわたって覇権を握り続けた一方の名族と言えそうである。
件の藤原種継は家持と20才ほど年齢差がある若輩官僚であったが延暦3(784)年、並みいる先任参議を越えて中納言に叙任され、同12月には中納言・家持(従三位)を追い越し正三位に叙せられている。その裏で桓武天皇の皇后に藤原乙牟漏を押し、皇后の母であり後宮の実力者である女官・阿倍古美奈(内大臣・藤原良継の室)の援助を得たことはいうまでもない。古美奈に橘三千代の再来を思わせる。種継は人事においても一等の力を発揮した人物と言えそうだ。
律令制下において、天皇は神と崇められる神秘的な清浄さを兼ね備えた存在として崇められまた、令制に天皇の所掌事務に定めがなく、奏上を受け詔勅を発などによって国家運営が行われ、皇后は天皇を補佐した。詔勅について手順は定められていても奏上が恣意的かつ時には偽宣旨が疑われることもあった。そのような環境のもと藤原氏は徹底的に外戚であることに拘り続けまた、天皇を補佐する唯一の存在として皇后の地位を重要視し、後継天皇に対する中継ぎ天皇として皇后を推すこともあり大いに政治をゆがめた様々の逸話が残っている。
氷上川継の乱
家持の事件への関与はそれほど単純でない。種継暗殺事件の3年前、家持は「氷上川継の乱」に関り従三位左大弁を解官(後に復帰)されている。
乱は天応2(782年)年閏1月、天武天皇の曾孫の氷上川継(父:塩焼王。父母共に天武の皇統。妻:藤原法壱)が首謀し、朝廷を転覆させようとして資人が宮中に押し入った未遂事件。乱の実相は不明であるが前年4月、光仁天皇は皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位した。その年の12月、光仁天皇の崩御と平仄を合わせるように異母弟の?田親王(母:天智天皇の曾孫・尾張女王)が急逝し、その直後に乱は起きた。この乱に連座して藤原京家・北家の高官が左遷されるなど乱の異様さがわかる。
井上皇后・他戸皇太子の廃皇后・廃皇太子
聖武天皇の第一皇女井上内親王は光仁天皇皇后となり他戸親王を産み、辛うじて天武系皇統が繋がっていたが宝亀3(772)、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃され、山部親王(後の桓武天皇)が立太子されることがあった。呪詛という言いがかりによって母子ともに消されたというべきか。
井上皇后母子の廃皇后・廃皇太子が天武系皇統を排除し、天智系皇統が復帰する前段となり、氷上川継事件がそれを後押しし、藤原種継事件をもって完成したというべきか。
それはまた、大伴宿祢旅人が遺言し、古麻呂、継人、家持に引き継がれ、果てしない陰謀のるつぼに身を浸し、懸命に藤原氏と向き合う抵抗の歴史であった。家持は詠う。‘
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しもひとりし思えば ’と。
藤原氏の登場は旧氏族の後退による新時代の幕開けでもあるとともに、律令という中央集権の法治国家において、政権をとった者が国家組織や天皇の神格性を重視しつつ国家を治め、謀反に対する抑止力と制圧を実現させ永く維持し得たことに驚くとともに、その奔流におぼれ沈みゆく多くの人々の哀れを未聞の政治と同じくらい永く見てきた。それはまた、日本の永い歴史のかなたに稲妻となって消え去った。−令和7年3月− |