安積親王残影−京都府相楽郡和束町− |
ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ (万葉集 1040大伴家持)
我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束そま山 (万葉集 476大伴家持)
|
冒頭の歌は、万葉集題詞によると左少弁藤原八束の家に安積親王が招かれたおり、内舎人大伴家持が作ったもの。八束は真楯の前名。歌の配列からみて作歌年は天平15(743)年の作。安積王(親王)薨去の前年の作である。
2首目の歌は、安積親王薨去の時、家持が詠ったもの。左注に天平16(744)年2月3日作とある。
安積親王は聖武天皇の第2子。母は夫人県犬養広刀自である。光明皇后を母とした第1子基親王は生後まもなく薨じ、安積親王は将来を嘱望された皇子だった。このとき、親王17歳、八束29歳、家持28歳ころかと思われる。
安積親王存命中、八束邸に集まった3人は建設が進む新都恭仁京に降る雨を感じながら夜更けまで狩のことなど語りあったことであろう。「ひさかたの 雨は降りしけ 思ふ児が 宿に今夜は 明かして行かむ」と詠う家持だった。
その5年前、基親王薨去後、立太子したのは安積親王ではなく光明皇后の娘阿倍内親王だった。光明皇后は藤原不比等の娘・光明子である。臣下の立后も阿倍内親王の立太子も異例中の異例の事態だった。藤原氏の専制に倦んでいた諸氏にやがて安積親王にと期待するところもあったであろう。それはまた、八束邸に集まった3人の若き貴公子らのおもいとも異なるところはなかったであろう。
しかし、翌天平16(744)年1月11日、恭仁京からやがて新京となるべき難波宮(※)に向かった安積親王は桜井頓宮(今の東大阪市六万寺町付近)で体調を崩し、恭仁京に引き返し、2日後に薨去。死因は脚気という説がある。
その死があまりに急だと人は思考力を失うものだ。茫然自失してその死に疑問を感じることすらなかったかもしれない。
※天平16(744)年2月、恭仁京から高御座、大楯が難波京に運ばれ都は恭仁から難波に遷都。
家持が安積親王に奉った長歌と反歌が万葉集に採られている。揺れる心を必死に抑えつつ、‘・・・かけまくも あやに恐し 我が大君 皇子の命 ・・・’(万葉集475)と長歌に悲愁の情を滲ませ、‘我が大君 天知らさむと 思はねば おほにそ見みける 和束そま山’(万葉集476反歌)と疎かに見過ごしてきた和束山に万感の情を込め詠う。
安積親王の墓(写真左)は、恭仁京にほど近い木津川の支流・和束川のほとりにある。和束は茶の名産地としてきこえるところだ。茶畑に囲まれた小高い丘陵上の墓所に皇子は眠っている。訪れた日、晩秋の稲田はしぐれ模様。非業の皇子安積親王の涙雨であろう。−平成21.11.20− |
|
|
|
|