31万人余を動員して造られた長岡京に、早くも陰りがみえ始める。延暦4(785)年9月23日深夜、桓武天皇が平城旧京に行幸中、中納言藤原種継(藤原良継、百川の甥)が長岡京で射殺される事件が発生した。種継は桓武天皇の忠臣で長岡京遷都の主唱者で造営長官であった。藤原式家の将来を嘱望された人物の殺害は、新都を震撼させた。
事件の真相について諸説ある。
事件の首謀者として逮捕された左小弁大伴継人らは、大伴家持に種継殺害をもちかけられたと自供した。さらに事件は大伴・佐伯の両氏が主導し、光仁天皇の第2子で桓武天皇と同母弟であった早良皇太子を巻き込んでおこしたものであることが判明した。
この事件で大伴継人、春宮(とうぐう)小進佐伯高成、春宮主書首多治比浜人、大伴真麿、大伴竹良、射手の舎人2名は即日、処刑。家持は事件の26日前に亡くなったとされる。病死とされるが死因ははっきりしない。官位剥奪という除名、埋葬は許されなかった。家持の子永主は隠岐国へ流罪。ここに大伴家の嫡流は断絶に至った。早良親王は乙訓寺に幽閉され、淡路に移送される途中、死亡した。
逮捕者の多くは春宮坊に属する大伴氏族でありその氏長が家持であった。大伴家は金村以来、武をもって天皇に仕えた家柄。しかし家持の親・旅人のころから武門の影が薄れ何一つの思いも実現できなかった焦りがあっただろう。また種継にも文武朝の影を完全に断ち切るためにも武門の大伴・佐伯一族を一掃する必要があった。
種継殺害につき家持の関与の仔細は不明である。大伴一族が動機も主導者もなく、一部の跳ね上がり分子の暴走によって種継殺害に至ったとは考えにくい。しかし、武門の名家であっても外様の家持が、外戚として天皇への発言力を持つ藤原一族を相手にして、積極的に種継殺害を指示したとは考えにくい一面もある。
さらに家持が春宮大夫であったことを思うと、家持が到底朝廷に反旗をひるがえす状況にはなかったと思われる。しかし、種継に、従妹乙牟漏(桓武皇后)が産んだ安殿親王を早良皇太子に代えて立太子させることによって乙牟漏の歓心をかってわが身と藤原式家の隆盛を願う陰謀が透けて見え、後先を考えず家持にとっさに殺害を決意させたのかもしれない。
家持の最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。陸奥按察使鎮守府将軍を兼務していたので現地で死亡したとする説もある。しかし、国政に与える影響が大きい種継殺害について、事件に関わった大伴一族の氏長たる家持の指示乃至同意を得ることなく実行に至ったとは考えにくい。そうすると家持の身柄は、陸奥按察使鎮守府将軍を遥任し、春宮大夫として京に在ったと思料するほうが自然である。
歌を忘れて20年余、家持の心情や知る由もない。大伴家の氏長たる家持の立ち位置と藤原氏の権勢など当時の政治的環境をおもうと、時に沈み込むこともあったであろう。
事件後、家持邸は家宅捜索を受け、家持邸から万葉集が発見され今日に伝えられていることは歴史の皮肉といえるだろう。
桓武天皇は藤原種継の暗殺事件後、しばしば早良親王の怨霊に苦しみはじめ、慰霊に努める。ついには、和気清麻呂の建議によって平安遷都を決断するにいたった。京都(山背)は秦氏の本貫地である。藤原種継の妻や遷都の調査に当たった藤原小黒麻呂の妻は秦氏ゆかりの子女を娶っていた。平安京造営に秦氏の協力を得やすく、秦氏一族は宮城の築造や太政官の築塀の建築を援助するなど財政的な支援にも積極的だった。渡来人(帰化人)は平安遷都にも大きな貢献を果たすことになったのである。−平成19年12月− |