滋賀
紫香楽宮跡−甲賀市信楽黄瀬−
 松林に秋風が吹く。三方を山に囲まれ、大戸川が南流するその先に信楽の刈田が広がる。ソバの花(写真下)がじわじわと忍び寄る冬の季節を思わせる。松林に約330個もの礎石が班をなす。赤茶けた林床に、中門、金堂、講堂、塔など宮の幻影をうつしている。
 天平12年(740年)8月、筑紫にくだった藤原広嗣は、玄ム、真備の排斥を求める上表を朝廷に行ったが聞き容れられることはなく、まもなく乱に発展する。その年10月、乱の最中に都をぬけだした聖武天皇は伊勢路に向かいその行宮で広嗣の斬首の報を受けた。しかし、天皇が平城京に戻るこることはなく、同年12月山城国相楽郡恭仁郷に入る。恭仁京の造営が始まり、翌天平13(741)年正月の朝賀がそこで行われた。しかし、聖武天皇の彷徨がとまることはなかった。天平14(742)年、恭仁京から甲賀郡に通じる道ができると、紫香楽宮(写真上宮跡)が営まれ、天皇の行幸がしばしば繰り返される。天平15(743)年夏の行幸は3ヶ月にも及び、このとき紫香楽宮で盧舎那仏建立の詔が発せられている。この年の調庸の発進は紫香楽宮宛とされ、紫香楽は都の様相を呈し、同年12月に恭仁京の造営は停止されるに至った。しかし、翌天平16(744)年2月、今度は難波宮に行幸が行われ駅鈴や内印などが運び入れられる有様であったが、天皇は難波宮にとどまることなく再び紫香楽宮に戻ってしまう。天平17(745)年正月、紫香楽宮に大楯と槍が樹てられ、事実上の遷都が行われた。しかし、世に放火が相次ぎ、天変地異が加わり、その年の5月、天皇は再び平城京に戻るという彷徨ぶりだった。平城京をたって実に5年の歳月が流れていた。

 紫香楽宮は朱雀門、大安殿、朝堂などが建ち、寺院を備え偉観が漂う都であった。 近年、朝堂など宮の主要施設の跡がみつかり、その概観が明らかになりつつある。この松林の遺構は甲賀寺とみられ、平城京の東大寺に匹敵する大寺だ。続日本記は、天平16(744)年11月、盧舎那仏像の骨組の柱が建てられ、聖武天皇が自らの手でその縄を引き、四大寺(大安・薬師・元興・弘福寺)の僧がすべて集まったとしるす。同様に、翌天平15年正月、宮の門に大楯と槍が樹ち、同7日天皇は大安殿に出て五位以上の官人を集めて宴を催し、このとき大伴家持が従五位下を授かるなど叙位が行なわれ、朝堂において主典以上の官人に饗応がおこなれたとしるす。同年正月21日天皇は詔して、行基法師を大僧正としたとしるされており、行基もこの地を踏むこともあったのだろう。のびやかな田園に稲穂が揺れる。紫香楽宮は確かに存在したのだ。
 信楽は焼物の町。紫香楽宮ができた頃から焼物が始まった。町の幹道沿いにならぶ陶器店の店先で品定めをする人々の姿が絶えることはない。