恭仁京(山城国国分寺址)−京都府木津川市加茂町瓶原− |
淀川の支流泉川の右岸に瓶原というところがある。泉川は木津川の別称。布当の野辺を流れる川。天平12(740)年10月、平城京を離れ伊勢に出立した聖武天皇は、なぜか都へは戻らず、伊勢、美濃、近江を転々として、山城国の恭仁郷に入ったのは同年12月。伊勢に向かってから2月余、聖武天皇は、ようやく恭仁郷を都と定める。 |
三香原 布当の野辺を 清みこそ 大宮所 定めけらしも (万葉集)
山高く 川の瀬清し 百代まで 神しみ行かむ 大宮所(万葉集) |
聖武天皇の彷徨はさらに続いた。天平14(742)年2月、紫香楽に行宮が営まれるとしばしば行幸が繰り返され、翌15(743)年の調庸は紫香楽あてとなり、同年末には未だ完成をみていなかった恭仁京の造営工事が中止された。さらに、天平16(744)年、天皇は難波への行幸を企図し、同年2月に勅を発し、難波宮が都となった。彷徨はさらに続く。天平17(745)年6月、官人らの意見に従って再び平城京が都とされたのである。猫の目のように変わる行宮と遷都。尋常でない朝廷の動揺と混乱はいったい何を物語るのか。藤原広嗣の乱を背景に橘諸兄と藤原氏一族との確執と謀略によって編まれた政変劇と思えてならない。動揺し身の置き場を失ってひたすら政治の安定を願った聖武天皇。筑紫から報ぜられた広嗣逮捕、斬殺の報をえてもなおとどまらなかった彷徨は、政権内部の対立や天変地変も重なってしばしば遷都を決意させることになったのだろう。
恭仁は諸兄の本拠地で別荘があったところ。恭仁宮址に大極殿の基壇が残り、遺址に石碑(写真上)が立っている。天平18(746)年、大極殿は山城国国分寺に施入され、金堂に転用された。その東方の基壇は、塔址(写真右下)。これらが恭仁宮のすべてである。 |
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恭仁京の位置図
(現地案内板より) |
国分寺址 |
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恭仁京址遠望
(中央の森と周辺) |
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恭仁京
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