京都
長岡京−向日市鶏冠井町−
 京都の南部に向日市という町がある。桂川の右岸に開け、その南で宇治川と木津川に合流している。西に天王山を背負い、水陸の要衝地である。今から1200年ほど前、桓武天皇の治下、この地にわずか10年で地上から姿を消した長岡京があった。延暦3(784)年11月、平城京から長岡京に遷った都が同13(794)年10月に平安京に遷るまで当地に都が存在したのである。東西4.3キロメートル、南北5.3キロメートルあった宮城は今、閑静な住宅地の中にあり、広大な遺構をことごとく地下に封じ込め、まだ覚めやらぬ夢をみているようである。 
 阪急京都線の西向日駅から少し北に上った線路の西側に、「長岡宮城大極殿遺址」と刻まれた明治28(1895)年建立の長大な石碑が立っている。当地は古くから大極殿遺址の伝承地であったが、昭和30年、当時西京高校教諭であった中川修一氏によって確認された。その後も発掘調査が続けられ、宮城の概観が明らかになりつつある。大極殿周辺はささやかな史跡公園になっている。
長岡京大極殿院・朝堂院(現地説明板から引用)

遷都と渡来人
 古代における遷都は、天変地変や政情不安など様々な動機で繰り返し行われてきた。飛鳥を旅立った人々は、藤原京、平城京、恭仁京、難波宮、紫香楽京、長岡京、平安京など都を転々とした。それはまた、朝皇位をめぐる皇族や有力氏族の思惑が交錯する権力闘争である場合もあった。長岡京遷都においても、遷都を行った桓武天皇の擁立に伴うどろどろとした権力闘争が内在していた。桓武天皇の先帝は称徳天皇(女帝)であった。崩御に接するも皇嗣が決まっておらず、先例に拠って壬申の乱以来の踏襲から右大臣吉備真備など天武系の皇嗣を推す者が多かった。先例によらず対極にあった人物が左大臣藤原永手、参議藤原良継、左中弁藤原百川など藤原氏の北家・式家の廷臣。女帝の宣命を盾にして天智系の白壁王を皇太子に推した。白壁王は2ヵ月後に即位し、光仁天皇となる。齢62歳の天皇であった。さらに3年後、皇后井上内親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたと密告する者が現れ内親王は大逆罪に問われ、その子で皇太子であった他戸親王とともに廃され、幽閉のうちに3年後にふたりとも獄死した。この間のいきさつについて、藤原氏北家の出である慈円が愚管抄の中で藤原百川の策謀であったことを指摘している。道鏡失脚の画策や長岡京遷都など百川はことあるごとに政局にかかわる大事を成しえている。間違えると命を落とすような大事を次々に画策し、成功させていることは大変興味をひく。古代最大の黒幕であろう。
 他戸親王の後、立太子したのは光仁天皇の子で中務卿であった山部親王であった。親王自体、思ってもみない逸事であったはずだ。皇太子は、光仁天皇崩御の後、即位して桓武天皇となる。生母は高野親笠たかのにいがさ。百済系の渡来氏族。河内の交野に勢力をもったやまと氏の出身である。百川の子旅子、良継の子乙牟漏がそれぞれ桓武天皇の夫人、皇后となっている。
 長岡京遷都の主唱者は、百川、良継の甥の種継と桓武天皇自身であった。70年続いた平城京は桓武天皇や有力廷臣にとって、勢力のある社寺が溢れ、天武系皇族などが取り巻く窮屈なところであったに違いない。山背国乙訓郡長岡村あたりは水運の便がよく、淀川の左岸地の北河内は百済王一族が起居し、敬福のように国司などの地位を得た者も住まいしたところだ。また、山背は、高度な灌漑技術をもち主に農業に従事する者や画工、鋳造などの金属加工、木工技術など新進の技術をあわせもった品部の伴造として勢力を蓄えた秦氏の本貫地であった。秦河勝など秦氏中から官人も出た。河勝は聖徳太子に近侍し、太子から仏像を受け広隆寺をつくったり、新羅使来日の際の導師になるなど推古朝の功労者である。
 秦氏は秦の始皇帝の末裔であると名乗った。たぶん5世紀後半頃から高句麗の南下圧力に押され朝鮮半島から大挙、日本に渡来し、欽明天皇のころからヤマト王権と結びついた氏族ではなかろうか。乙訓は河内と山背の中間にあって、つかず離れず、王城の地としてまことによい条件をそなえていたし、何よりも財力と武力を備えた渡来人の存在や秦氏の援護は、諸豪族に天皇の優位性を示すためにも好都合であったに違いない。 
家持の反乱と大伴家の滅亡
 31万人余を動員して造られた長岡京に、早くも陰りがみえ始める。延暦4(785)年9月23日深夜、桓武天皇が平城旧京に行幸中、中納言藤原種継(藤原良継、百川の甥)が長岡京で射殺される事件が発生した。種継は桓武天皇の忠臣で長岡京遷都の主唱者で造営長官であった。藤原式家の将来を嘱望された人物の殺害は、新都を震撼させた。
 事件の真相について諸説ある。
 事件の首謀者として逮捕された左小弁大伴継人らは、大伴家持に種継殺害をもちかけられたと自供した。さらに事件は大伴・佐伯の両氏が主導し、光仁天皇の第2子で桓武天皇と同母弟であった早良皇太子を巻き込んでおこしたものであることが判明した。
 この事件で大伴継人、春宮(とうぐう)小進佐伯高成、春宮主書首多治比浜人、大伴真麿、大伴竹良、射手の舎人2名は即日、処刑。家持は事件の26日前に亡くなったとされる。病死とされるが死因ははっきりしない。官位剥奪という除名じょみょう)の刑に処せられ、埋葬は許されなかった。家持の子永主は隠岐国へ流罪。ここに大伴家の嫡流は断絶に至った。早良親王は乙訓寺に幽閉され、淡路に移送される途中、死亡した。
 逮捕者の多くは春宮坊に属する大伴氏族でありその氏長が家持であった。大伴家は金村以来、武をもって天皇に仕えた家柄。しかし家持の親・旅人のころから武門の影が薄れ何一つの思いも実現できなかった焦りがあっただろう。また種継にも文武朝の影を完全に断ち切るためにも武門の大伴・佐伯一族を一掃する必要があった。
 種継殺害につき家持の関与の仔細は不明である。大伴一族が動機も主導者もなく、一部の跳ね上がり分子の暴走によって種継殺害に至ったとは考えにくい。しかし、武門の名家であっても外様の家持が、外戚として天皇への発言力を持つ藤原一族を相手にして、積極的に種継殺害を指示したとは考えにくい一面もある。
 さらに家持が春宮大夫であったことを思うと、家持が到底朝廷に反旗をひるがえす状況にはなかったと思われる。しかし、種継に、従妹乙牟漏(桓武皇后)が産んだ安殿親王を早良皇太子に代えて立太子させることによって乙牟漏の歓心をかってわが身と藤原式家の隆盛を願う陰謀が透けて見え、後先を考えず家持にとっさに殺害を決意させたのかもしれない。
 家持の最終官位は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。陸奥按察使鎮守府将軍を兼務していたので現地で死亡したとする説もある。しかし、国政に与える影響が大きい種継殺害について、事件に関わった大伴一族の氏長たる家持の指示乃至同意を得ることなく実行に至ったとは考えにくい。そうすると家持の身柄は、陸奥按察使鎮守府将軍を遥任し、春宮大夫として京に在ったと思料するほうが自然である。
 歌を忘れて20年余、家持の心情や知る由もない。大伴家の氏長たる家持の立ち位置と藤原氏の権勢など当時の政治的環境をおもうと、時に沈み込むこともあったであろう。
 事件後、家持邸は家宅捜索を受け、家持邸から万葉集が発見され今日に伝えられていることは歴史の皮肉といえるだろう。 
 桓武天皇は藤原種継の暗殺事件後、しばしば早良親王の怨霊に苦しみはじめ、慰霊に努める。ついには、和気清麻呂の建議によって平安遷都を決断するにいたった。京都(山背)は秦氏の本貫地である。藤原種継の妻や遷都の調査に当たった藤原小黒麻呂の妻は秦氏ゆかりの子女を娶っていた。平安京造営に秦氏の協力を得やすく、秦氏一族は宮城の築造や太政官の築塀の建築を援助するなど財政的な支援にも積極的だった。渡来人(帰化人)は平安遷都にも大きな貢献を果たすことになったのである。−平成19年12月−
藤原百川の墓
(木津川市木津
町相楽)
桓武天皇柏原陵
参考 : 恭仁京 紫香楽宮