大阪
百済王古址(百済寺)−大阪府枚方市中宮西之町−
 枚方は古代から栄えた歴史のある町である。市街を見下ろす小高い丘陵に氏寺を営み、大阪湾の彼方に沈む夕日を眺め、深いため息をつき望郷の想いに涙したであろう人々がいた。朝鮮半島から逃げ、日本にたどりついた百済国王の一族だ。寺は中門と金堂を繋ぐ廻廊をめぐらせ、ロの字の空間に東塔、西塔を配置し、金堂の北側には講堂、食堂が並ぶ。寺の西に張り出した社は百済王神社。百済寺の草創と同時期に一族によって祭祀されたのであろう。
 日本の国家の草創期に、朝鮮半島からおびただしい人々が玄界灘を越え、畿内に渡来し、大和やその周辺に定住した。一部は楽浪郡や帯方郡の中国人系の渡来人もいたかと思うが、大部分は百済、新羅、高句麗など朝鮮半島諸国の人々である。日本書紀や続日本紀は日本と朝鮮半島との通交やそうした渡来、漂着民の流入やその処遇にかかる多くの記録をとどめている。さらに、中国の漢や魏の影響を受けた朝鮮半島諸国における先進的な文化や技術の多くは彼らによって日本に運ばれ、わが国土に根付いたものが実に多いのである。
 渡来人の波は、ヤマト王権がおこったと考えられる4世紀末ころから頻繁になり、7世紀後半のころ一応、終了する。その最後の波は、百済、高句麗の滅亡に伴う多くの亡命者の渡来である。西暦562年、任那を併合した新羅は、西暦660年に唐と連合して百済の王城を陥れる。百済からの救援要請を受け、ヤマト王権は朝鮮半島に大軍を送るのであるが、663年、白村江においてヤマト軍は唐と新羅の連合軍に大敗を喫し、百済の再興はならず朝鮮半島から叩き出され、5年後には高句麗が滅ぶ。百済、高句麗から日本へ亡命した者は、1万人近くにもなった。百済、高句麗の王族の一部や知識、技能を持った渡来人の主だった者は畿内に定住したが、東国の開拓に従った者も多くいた。日本書紀は天智天皇5(666)年に百済の2,000余人を東国に移し、続日本紀は霊亀2(716)年に東国の高句麗人を集めて武蔵国に高麗郡を置き、1799人が入植したとしるしている。
 百済の滅亡時に渡来し、畿内に居住した者のなかには王族や高位高官の者が含まれていて百済官位16階中、第1、2の者が70名ほどにもなった。百済国の枢要部がそっくり渡来するほどの大移動がおこったのである。天智、天武、持統期における輝かしい文化もそうした渡来人に支えられ花開いたのである。
 枚方には、日本に亡命した百済国王禅広の子孫が定住した。禅広ははじめ難波の地に居住し、百済王くだらのこにきしの氏を得たが、その後裔敬福が聖武天皇の恩寵を得ることはなはだしく、天平年中に従五位上陸奥守にいたり、東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国小田郡より産出した金を献上した功労によって従三位河内守に任じられ、この中宮の地を得て住みついたのである。当時の淀川は今よりずっと東側を流れ、大阪湾は入江をなしていたから、野鳥が多く入江近くの高台で百済寺の伽藍が壮麗をほこり、大宮人が交野原で遊猟する光景もみられたことであろう。時代は下っても天皇家と百済王氏との関係はよく、高野新笠が光仁天皇夫人となって後宮に入り桓武天皇が生まれている。桓武天皇は百済王氏を「朕之外戚也」」と賞したことが続日本紀にしるされている。百済王氏が桓武天皇の行幸をあおぎ、百済楽を演奏するたびに外戚としての位階も上がったことであろう。嵯峨天皇や仁明天皇も后妃を百済王氏の一族から迎えている。このようにして百済王氏は古代の名族として大いに栄えたのである。−平成19年−

百済王神社 百済王神社境内から
市街を臨む