京都
和束の松籟(貴公子たちの夢と挫折と)−相楽郡和束町−
 数ある樹木の中で年を重ねるほどに澄む松籟の音に古人は松を神の依り代としてまた、二枚の葉がしっかり結ばれ、繋がる様に人事のありようをも感じ取ったことであろう。古来、日本人は松に特別の感情を抱いてきた。
 万葉集歌中、松を詠ったものは萩、梅に次ぐ多さである。
〇 一つ松 幾代かぬる 吹く風の こえめるは 年深みかも (市原王 万葉集1042)
〇たまきわる いのちは知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞおもふ (大伴家持 万葉集1043)
上の万葉集詠歌の題詞に「同月(※:天平16(744)年甲申春正月)11日、登活道岡集一株松下飲歌二首」とある。※筆者注
 活道岡いくじのおかは今の京都府相楽郡和束町(白栖)の大勘定(写真左)にある。そこは恭仁京に比較的近く、市原王の別荘で宴を催したものか。また活道岡と背中合わせのにところに聖武天皇の皇子・安積親王の和束墓(写真左下)がある。安積親王所縁の館が大勘定にあって市原王と家持を招き宴をもち詠ったものとも考えられる。しかし、その日(天平16(744)年甲申春正月11日)は、安積親王が聖武天皇に随って難波宮に行啓する日に当たり、安積親王が宴を開いたとは考えづらい。それはまた安積親王が家持らと宴をひらいたことを隠すため家持が策略ではなかったかという疑念も生じる。

 聖武天皇の第1皇子基王((母光明皇后)薨去後、藤原氏の最大の関心事は第2皇子安積親王(母県犬養広刀自 )の動向であったはず。それを一番気にかけていたのは安積親王をよく知る内舎人家持であった。
 藤原氏の権勢を恐れた家持の作為により詠歌(宴)の日付が変えられたのではと思ってもみる。市原王と家持の二人は意味もなく恭仁京を離れ活道岡いくじのおかで杯を重ねたわけでもあるまい。意味を考えないと家持の歌は駄作になってしまう。私は宴に安積親王がいたと思いたい。人目を避け活道岡いくじのおかの安積親王の別荘のようなところで宴がひらかれたに違いない。そこに生える一本松の下で気の置けない貴公子らが杯を酌み交わす情景が浮かぶ。
 一首目は市原王。二首目は大伴家持。市原王は安積親王の即位に期待し親王の成長を松籟に託し、「…めるは年深みかも」と皇位継続の正当性を松陰の音色になぞらえて詠ったのだろう。 家持の歌は実にありきたりのそれ。家持が意味もなくこのような歌を詠うはずもない。安積親王の母県犬養広刀は、長期間にわたり朝議メンバーとして日本の歴史の瞬間、瞬間をみてきた県犬養三千代と同族とみられ、親王に藤原氏を否定できない思いが去来したとしても不思議ではない。そこに、反藤原関係者との宴をあからさまにできない親王の事情を気にかける家持がいる。家持は自分の命はわからないが松の寿命のように私はいつまでも命を永らえて安積親王の即位を待っていると、親王の帝位への期待を込め詠ったのではないだろうか。
 さて難波京に向かった安積親王は途中、体調を崩し、恭仁京に引き返し2日後の正月13日に薨去した。余りに衝撃的な親王の薨去に家持は身の危険を感じ、宴の日を11日に充て宴から親王を消し去ったのではないか。宴は行啓の直前に開かれたと思いたい。
 歴史の転換点における優勝劣敗は非常である。家持の処遇しかり、また市原王は天智天皇の後裔で妻は能登内親王(光仁天皇の女)。血筋はよかったが造東大寺司に二度務め、官位は正五位下にとどまり生没年すら不明である。彼らはともに権勢に頼ることなく風雅に遊びいつかはとその生き様を松の年輪に刻んだのである。−令和5年8月−

恭仁京
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和束の松籟(貴公子たちの夢と挫折と)
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万葉集,その再編と県犬養三千代の歌の疑問