九州絶佳選
佐賀
藤原広嗣−唐津市、浜玉町−
大村神社 浜玉町の玉島川のほとりに大村神社(写真)が鎮座する。藤原広嗣朝臣を祀る社である。
 藤原広嗣は宇合の長子で大宰少弐に左遷された人であるが、僧玄ムと吉備真備の策略があったと伝えられる。
 広嗣は玄ムらを排すべきことを朝廷に上表したが容れられず、筑紫で反乱を起こす。北九州の板櫃川で官軍と対陣、敗走し、五島列島から海外に逃れ4日間航行し耽羅島(済州島)を見つけたが東風を受けて接岸できず漂ううちに西風に吹き返され等保知駕とおちか島の色都しこつ島(現在の五島列島の福江島か)に漂着し、捕らえられ、天平12年(740年)、肥前国松浦郡において官軍の大将軍大野東人に斬られたと続日本紀はしるす。
 広嗣の死後、都に悪疫、天災地変が続き広嗣の霊のなすところといわれ、玄ム、真備はともに筑紫に移された。真備は身をつつしんで勉学に励み、後に肥前守となり、右大臣にまで登りつめたが、玄ムは天平17年(745年)、造観世音寺使として大宰府に左遷の翌年、観世音寺の落慶法要の際に死んだ。戒壇院裏手の民家の脇に墓(写真右下)がある。 
 大村神社の社伝によれば、西暦752年(天平勝宝4年)、真備は広嗣の逝去の地大村に無怨寺を建立し慰霊の趣を表し、広嗣は無怨寺大明神として崇められたという。無怨寺大明神は、明治期の神仏分離令によって、大村神社と改称されている。
 藤原広嗣は、藤原鎌足−不比等−宇合と続く藤原家嫡流の貴公子で、宇合の長男である。聖武天皇の母宮子や皇后光明子は叔母にあたる。父親宇合をはじめ藤原不比等の子である武智麻呂、房前、麻呂が次々と死去し、広嗣は藤原式家の将来を背負った人物だった。ときの右大臣橘諸兄は広嗣の義理の伯父であったが血縁を欠いていた。入唐25年、研学したといわれる玄ム、真備が諸兄の顧問となり聖武天皇の寵愛を受けるようになる。広嗣とほとんど同時期に地方豪族出身の玄ム、真備が従五位下を授けられ、広嗣は在京の大養徳やまと守に任じられた。それもつかの間、広嗣はすぐに大宰府少弐に左遷されたのである。
 天平12年(740年)8月、広嗣は朝廷に玄ム、真備の排斥を求める上表文を送ったがとりあげられることはなかった。上表は、事実上の反乱の予告であった。同年9月、広嗣は挙兵する。広嗣27、8歳のころかとみられる。天皇は大野東人を大将軍に任じ、紀飯麻呂を副将軍に任じ、4畿内と七道諸国に対し7尺の観世音菩薩像1体を造り、観世音経10巻を写経するように勅し、広嗣らを討つ大勢を整えた。
 広嗣は大隈、薩摩、筑前、豊後の国軍、合わせて5,000人ばかりを率いて鞍手道(鞍手郡を通る道)を進む、広嗣の弟綱手は、筑後、肥前の国軍、5000人ばかりを率いて豊後国より北上、多胡古麻呂は田河道(田河郡を通る道。3道の中央)を進む作戦であった。広嗣の父宇合は大宰帥を勤めたことがあり、国軍の動員は比較的順調に進んだものとみられる。これで瀬戸内海を下ってくる官軍を迎え撃つ戦闘態勢は整ったわけだ。
 これに対し、大野東人を持節大将軍とする官軍は、山陰、山陽、南海など5道から1万7000人の兵を集め西下する。壬申の乱(672年)以来、70年ぶりの大乱は、都を震撼させ聖武天皇の動揺も極点に達したことであろう。天皇は広嗣反乱の報に接してから26日後、事態やむを得ず関東(不破、鈴鹿関以東の地域)に往こうと思う、と勅を下し、都を離れる事態となる。
 東人は、はじめ長門国豊浦郡少領額田部広麻呂や勅使佐伯常人らによって板櫃の鎮を占拠させ、広嗣に動員された豊前の京都、登美、板櫃の鎮長らを斬ると京都郡の大領などの投降がはじまる。そのうち広嗣は自ら隼人軍を率いて板櫃川(北九州市小倉区の紫川か)の西岸に到着し、1万の兵が官軍と対峙する。一大決戦の時とみるべきであろう。しかし、このとき綱手の行軍が板櫃川の合戦に間にあわず、このことが或いは広嗣の決断を躊躇させることになったかもしれない。板櫃川を挟んで両軍が対峙すると、官軍の先鋒隼人たちが「逆人広嗣に従い、官軍に抵抗する者は身を滅ぼし、罪は妻子、親族に及ぶぞ」と連呼する。広嗣は官軍に勅使がいることを確認すると、なんと戦闘態勢を解き、馬から降り、両段再拝(二回づつ二度拝礼)の礼をもって勅使を丁重に迎えたのである。広嗣は、「朝廷にそむくつもりはなく二人の乱人を申しうけたい」というのであるが、勅使から「勅符を下賜するために来た。朝廷を尊重するなら、どうして反乱を起こしたのか」と問われると答弁することことができず、朝廷の権威の前にひれ伏してしまう有様。戦況は火を見るより明らかであった。兵の士気はあがらず、降伏する隼人などもいてたちまち総崩れとなってほとんど戦わずして広嗣ら反乱軍は敗走してしまう。天平12年(740年)11月、広嗣は五島列島から海外に逃れようとしたが西風に吹き返され、肥前国松浦郡で弟綱手とともに捕らえられ、東人に斬られ乱は終息した。天皇は伊勢国壱志郡の関宮(白山町川口付近)において広嗣捕縛の報に接っするのだった。乱の勃発からすでに1ヶ月を経ていた。翌天平13(741)年正月22日、広嗣一味の処刑が刑部省に下され、執行された。死罪26人、官に没収5人(奴婢とする刑)、流罪47人、罪32人、じょう罪177人。
 広嗣は姻戚関係を通じて皇室に縁が深い藤原家の家系。しかし、反乱をおこしておりながら逆人となることを恐れていては戦になろうはずもなかった。くわえて、単に、玄ムと真備の排除が目的ならば、朝廷を震撼させるほどの戦闘態勢を整えるほどのこともなかったであろう。広嗣は、大宰府にくだり、腹をくくってもっと壮大な野望を抱いていたのではないだろうか。筑紫は日本が手本とした先進地の唐、新羅に近く、古来交通があり朝鮮半島に雄飛した時代もあった。海東の覇権を夢見てしまったのではないだろうか。しかし広嗣は勅使の姿を見るや現実の世界に戻ってしまう。無意識にへなへなと野望を否定する行動をとってしまったのである。実践がなく、育ちのよさが災いしたというべきであろう。
 乱の後、都の人々は広嗣の怨霊が仇をなすことを恐れた。暗雲が漂い、玄ム、真備はともに筑紫に左遷されてしまう。反乱の傷跡は聖武天皇の身辺に大きな不安、動揺を与え、恭仁宮遷都、国分寺の建立などへの誘因となったことであろう。
 唐津の松浦潟の背後に聳える鏡山に、鏡山神社(写真下)がある。同社の二ノ宮は藤原広嗣を祭る社である。鏡山から松浦潟(写真上)を望むと、波浪に漂う広嗣の船の幻影が見えるようである。−平成17年11月−
藤原広嗣の乱のあと
 藤原広嗣の乱平定の功労者は、長門国豊浦郡少領額田部広麻呂、仲津郡擬少領膳東人ら郡領の一族である。朝廷直轄の師団が国郡に配備されていたわけではなく、当時の国軍の主力はこうした在地の豪族によって支えられていたのである。郡領の職分田(給料に相当)は大領6町、少領4町であったが、国司のように6年(後に4年)交替制はとられず、領民の信奉を得て終身、居座った。国司の考(いわゆる勤務評定)を受け昇進はするが、考は形式的で転任させられることはなかったのである。朝廷は豪族の存在を無視できず、広嗣の乱後、聖武天皇は、国分寺建立の発願にことよせて、天平19年(747年)9月、郡領の協力を求める詔を発っするのである。「・・・郡司の勇幹にして諸事を済すに耐へたる者を任じて、専ら主当せしめ、来る三年以前を限りて、塔、金堂、僧房を造りて、悉皆に了えしめよ、若し能く勅に契ひ、理の如く修造せば、子孫絶ゆること無く、郡領の司に任ぜん」と、宣言したのである。こうして大領、少領の一族は、地方において隠然とした力を蓄えはじめる。
 藤原広嗣の乱は、律令制下の国衙が権力統制の象徴であっても、武力は地方豪族である郡領一族に握られていたことを示している。地方豪族がやがて武士団に成長し、中世社会の主役となる起爆装置を埋め込む主因となった点において、広嗣の乱は日本の歴史を変えた乱とみてよいのではないかと思う。

大村神社境内(浜玉町)

鏡神社(唐津市)
藤原広嗣は二ノ宮の祭神

観世音寺(太宰府市))

玄ムの墓(太宰府市)