九州絶佳選
福岡
憶良の悲しみ
日本挽歌(山上憶良)-太宰府市-
大野山-太宰府市坂本-
鴨生の憶良-稲築町- 
荒雄の悲劇-福岡市東区志賀島-
水城の記憶-大宰府市、春日市等-
憶良の悲しみ
 万葉集巻5雑歌に、‘太宰帥大伴卿宅宴梅花歌三十二首并序’の目録があり、渡来の梅の花が咲くころ旅人邸で催された宴に集まった太宰府や西海道の国守、目等官人の歌(以下、「梅花歌」という。)がしるされている。その構成をみると、冒頭に漢文の題詞があり次に和歌の順。新しい元号「令和」は題詞の文言から採られた。
 題詞を抜き書きすると、「梅花謌三十二首并序」の次に、「天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春月氣淑風梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖・・・詩紀落梅之篇古今夫何異矣宜賦園梅聊成短詠」とある。元号の選定に当たっては一定の約束事を前提にして、最終的に‘令和’が選定された。
 標記の赤字が新元号に引用された。令和を含むアンダーライン箇所の文意は「(天平2年正月13日、大伴旅人宅で宴会を催した時は)初春のよい月で、気候もよく風穏やか。梅は美人が鏡の前で紅粉を粧っているように美しく咲いている。蘭が珮(玉を飾った大帯)の後ろに良い香りを放っている。」と解される。この短い文節の中にも「文選」「宋書」「楚詞」に拠ったとみられる表現がある。この辺りに題詞の作者は宴の主人たる旅人ではなく漢籍に精通した憶良説がうまれる余地があるのだろう。
 ところで梅花歌が収められた第5巻は本梅花歌や遊松浦贈答歌など太宰帥大伴旅人の神仙譚的かつ戯曲的な構想のもと編まれたものもあり特異なものになっている。しかしわざわざそのために西海道の歌上手の官人が選ばれてこの宴に召集されたものであろうか。太宰府のお膝元に堅物で筑前国守山上憶良がいてかつ憶良は主賓のひとりに選ばれていることなどを考えると、この梅花歌の宴は西海道を所管する太宰府が開催した公式の会議後の余興として開かれたのであろう。
 太宰府は「遠の朝廷」といわれ倭国が白村江の戦(663年)で唐・新羅連合軍との戦に負け朝鮮半島から撤退して以来、西海道の防衛や社会経済を握り、今日の国家行政組織上のブロック機関よりはるかに強大な権限を有していた。律令制下の下部機関たる西海道の国守等は当然、定期に大宰府に集められ自国の動静を報告し、人事や四度使、租税等の監査、指導をうけていただろう。そのような諸国の国守等が太宰府に参集する機会に梅花の宴は催されたと思う。
 さて、旅人が催した梅花の宴の出席者は大宰府官、西海道の国守、同目、掾等の官人である。歌は官位順に三十二首、並べてある。旅人の歌が主賓(4名)の次におかれているのは主催者故であろう。
 旅人の漢詩文趣味は玉島川(今の松浦川)を詠った詩歌と同様に梅花にも感染させ、藤原氏に圧され昇進の望みを失いかけた己が境涯の不安を詩歌や学識を通じ中央官人に訴える意図も隠されていたかもしれない。家持は宴に九州諸国の国守らを居並ばせ己の指導、支配力を示すことも忘れてはいなかった。そうした格好のデモンストレーションは旅人を頼った憶良の演出であったとしても不思議ではない。契沖や真淵は梅花の宴の題詞は憶良作と指摘していることも興味深い。
 いざ、梅花の宴にご案内することとしよう。
春さればまず咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ <山上憶良>
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも <大伴旅人>                     
 天平2(730)年正月13日、大宰帥大伴旅人邸で梅花の宴が催された。太陽暦の2月8日。渡来の梅の花がほころぶ頃だ。大宰府中央官人や西海道の官人32名が会した。山上憶良がいる、小野老、沙弥満誓がいる、大伴百代もいる。主賓の大弐紀男人卿(大宰府次官)が、「正月たち春の来たらば・・・」(写真左の歌碑)と詠う。梅を客人に見立て先ずは宴のあいさつ。
 旅人邸は都府楼の北西あたりにあったといわれる。大野山の山裾に近く、大極殿の甍越しに月山が見える展望のよいところだ。
 次いで憶良が「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」と詠う。やがて旅人が「わが園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも」とうたい宴は進む。
 憶良の歌は、家持の「うらうらに照れる春日にひばりあがり情悲こころかなしもひとりしおもへば」の歌の視点に近いものを感じさせ、「憶良らはいまは罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらんぞ」と詠じる軽い調子の歌とは異なる陰影を滲ませている。
 憶良は、40歳を過ぎ遣唐使の少録となって唐土を踏み、帰朝後は皇太子(聖武天皇)の侍講を務め、類聚歌林を著し漢詩文にも堪能な人であった。唐土に在っては、「いざ子どもはやくやまとへ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」と詠む憶良。憶良の素性や知るよしもなく、憶良と旅人の私的な関係もよく分からない。旅人は右大臣不比等を頂点とする有力な廷臣であり、憶良は東宮に近侍する学者であった。両者の地位に大きな隔があったにせよ互いに認知する間柄ではなかったか。中央政界における旅人の劣勢に憶良は自らの境涯を重ね合わせて共感するところもあったのだろう。
 神亀5(728)年ころ大宰帥に任ぜられた旅人。その子家持らを連れ筑紫に赴いた旅人だった。このとき、すでに筑紫には筑前守憶良、造観世音寺別当沙弥満誓まんせい、大宰少弐小野おゆらがいた。奇しくも当代の代表歌人が遠の朝廷とうたわれた大宰府に集結し、筑紫詩壇ともいうべき歌壇が形成されたのである。
 旅人は憶良を見出したからこそあえて幼い家持や弟の書持を筑紫に伴ったのではないか。家持を武門の宗主に育てるため、憶良をいわば家持の家庭教師にと頼む気持ちが旅人にあったのではなかろうか。「うらうらに照れる春日にひばりあがり情悲しもひとりしおもへば」 と詠う家持の古今調のリズムを感じさせる歌の素地が、このころに育まれたのでないかと思う。
 天平元(729)年2月中央では無位の東人らの誣告(続日本紀)により左大臣・長屋王が自尽に追い込まれ、同年8月光明子が立后。旅人には憂鬱な日々が続いたことであろう。大納言に昇進し大和に戻った旅人が天平3(731)年7月に死亡すると、翌月に宇合ら藤原4兄弟が諸司の主典以上の者約400人の推薦を受け参議となる。廷臣幹部から大伴氏らの旧族が駆逐され、朝廷が唸りをあげ藤原氏中心に回りはじめる。このころ、朝廷は新羅との関係悪化を理由に諸道に、鎮撫使(後の節度使)を国司の上に置き、軍政の強化を図る。これもまた外憂にかこつけ、大伴氏ら旧族の反乱を警戒した藤原氏の画策とも考えられる。相前後して朝廷は山背などに所在する官人の陸田や国司の墾田を公収しており、いわば藤原政権は物心両面から対抗勢力の出現を阻止し、政権の安定化に並々ならぬ決意を示したものといえるだろう。
 太宰府にあって、還暦を過ぎ当地に遣られたのも藤原氏の差配からかと深い憂鬱に沈む旅人の心を大伴一族が共有したことは想像に難くない。筑紫で妻大伴郎女を亡くし、ようやく大和に戻った旅人の心は一層沈み、名族の棟梁の影すら見出すことはできない。(写真(上2枚)は大宰府展示館のジオラマを引用)。
沫雪のほどろほどろに降り敷けば平城の都し思ほゆるかも <大伴旅人>
世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり <大伴旅人> 
 旅人は、藤原氏の台頭と長屋王の横死など一連の政変と自身への処遇につき一片の感想も述べてはいない。長屋王の変後、中納言のまま大宰帥に任じられ形式上、栄進した旅人であった。しかし、朝廷内の政治地図や年齢等から推し、大臣への昇進を絶たれた旅人の悲嘆を誰もが共有していた。だからこそ旅人は、唐代の小説遊仙窟にヒントを得た「松浦河に遊びて贈り答ふる歌二首並に序」のような万葉世界をうたいあげ慰戯としたのではないだろうか(参照:松浦川)。この梅花の宴も文選などの漢詩文からヒントを得て催されたことは冒頭、しるしたとおりである。
 梅花の宴の日、華やかな雰囲気とは異なる憂鬱が旅人を囲む人々を覆っていたことであろう。
 長屋王の変後、天然痘の流行などで天平9(737)年、藤原宇合などが死亡すると、大伴家持と親交のあった橘諸兄が大納言に就任し政権が発足。しかし、天平勝宝8年(756年)2月、諸兄は讒言にあい辞任し、翌年薨去。大伴一族に次々と迫る不運は、旅人亡き後も家持の憂鬱を誘ったことであろう。
 多感な時代を筑紫で過ごし、旅人が大和で薨去したとき家持は14歳ほどの若さ。後年、安積親王との親交が伝えられるが、有力な皇位継承者だった親王も天平16(744)年、17歳の若さで急死。藤原仲麻呂の暗殺説がある。旅人亡き後、家持が望んだ安積親王の即位も幻となり、家持の期待も淡雪のごとく消え去ったのである。
 大伴氏の没落は名族でもなく大伴氏を頼りに必死に生きた憶良の悲しみでもあったに違いない。大伴一族に次々と迫る政変や藤原氏の專暴或いは不安定な国際情勢は憶良に悟道を感じさせつつ、憶良の愛情は子や四囲の名もなく貧しい人々に注がれる。
すべも無く苦しくあれば出で走りななと思えど兒さやりぬ 〈万葉集 山上憶良〉
富人とみびとの家の子どもる身無みくだつらむは絹綿らわも 〈万葉集 山上憶良〉
 それは、「日本挽歌」、「男子名は古る日を恋ふる歌」、「熊凝の為に其の志を述ぶる歌に敬いて和う、六首並びに序」、「筑前国志賀の白水郎の歌十首」から、次第に自らの死に迫る不安や富者への怒りを滲ませつつ、「貧窮問答歌」のようないわば世間の詩歌を詠み、人の世の真実を見出さんとする最晩年の憶良がいて、死にうろたえときに激情を爆発させる。病みそしてひたすら実直に生きる憶良。何とも人間的である。-平成18年2月-
参考 : 山上憶良の社会認識-消された憶良の詩歌の精神-
日本挽歌(山上憶良)-太宰府市-
妹が見し楝(おうち)の花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに (山上憶良)                 
 大宰帥大伴旅人の妻大伴郎女いらつめは逝ってしまった。都から筑紫路へと、郎女と家持を伴って都を旅立った旅人であったが、1ヶ月に及ぶ長旅がたたったのか郎女はまもなく筑紫で病没。
 君が見た薄紫の(おうち、センダン)の花が散ろうとしているのに、私の悲しみの涙は乾くことがない、と旅人の心を慮った憶良。憶良の日本挽歌中の1首である。70才に手が届く憶良。還暦を過ぎ妻の死に直面した旅人の心を代弁するのだった。武門の誇りを影すらも自覚できないほど旅人の心は沈んでゆく。
 旅人は、以来一貫して詩歌に消沈の趣を漂わせ、任あけて帰京した翌年、天平3(731)年7月、佐保で薨去。太宰府から都へ帰る途中、鞆の浦、敏馬崎で亡き郎女を恋う歌を詠い、都でも追慕の歌を詠う旅人だった。妻の死は旅人の生きるともし火さえも奪ってしまった。郎女の亡骸は、旅人邸近くの大野山の裾野に葬られたのであろう。楝の花が降りしきる日に郎女の影を追う旅人がみえるようである。-平成17年5月-

 楝(センダン)の花は古来、なぜかその花の色のイメージからか、澄んだ清らかさとともに、寂しさのだだよう花のようである。明治の唱歌に、「夏は来ぬ」という歌がある。佐々木信綱の作詞でよく知られた歌であるが、楝が卯の花や橘とともに夏の日本的な情景をイメージする代表的な花として4番に扱われている。近年では、街路樹として用いられることもある。
楝散る川辺の宿の門遠く水鶏声して夕月涼しき夏は来ぬ
参考
  憶良の悲しみ
  山上憶良の社会認識-消された憶良の詩歌の精神-
大野山-太宰府市坂本-

(大野山を望む)
大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯おきその風に 霧立ち渡る <山上憶良>                    

 都府楼の大極殿跡の北側に大野山(標高410㍍)が横たわっている。唐・新羅の侵攻によって大宰府の水城が破られるなど有事の際に、官人は都府楼北西の山裾から一気に大野山を駆け登り、大野城に避難することになっていたのだろうか。大野山は石塁、土塁を巡らせた山城だ。大宰帥・旅人の邸宅は都府楼の北西、今の八幡神社辺りにあり、大野の登り口に近いところにあったという。
 近年、大野山の山裾にもマンションや近代的な住宅が建ち並ぶようになり、寂びた雰囲気も感じられなくなったが、坂本辺りの山裾に若干、田畑が残っていて大宰府の古色をとどめている。
 春の日、霧こそ立っていないが、大野山に霞がかかり、菜の花が風に揺れる景色など眺めていると憶良の日本挽歌が浮かぶ。旅人の妻・坂上郎女が逝ったのは神亀5(728年)年、おうちの花(センダン)が咲く春の頃だった。
 都府楼の表通りもよいが坂本辺りの山裾から国分寺跡、戒壇院、観世音寺へと大宰府の山道を歩くのもよいものである。-平成18年3月-
鴨生の憶良-稲築町 
瓜食めば子ども思はゆ栗食めばまして偲ばゆ 何処より来たりしものぞ眼交にもとな懸りて安眠し寝さぬ  <万葉集巻5 802>
しろがねくがねも玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも <万葉集巻5 803>
 上の2首は、神亀5(728)年、筑前国守山上憶良が嘉麻郡(現嘉穂郡)の郡家において撰定した万葉歌である。憶良は、国司に課せられた年1度の国内巡察の折、遠賀川のほとりに所在した郡家(鴨生の役所址辺りか)でこの歌を撰した。実直な億良は毎年、欠かすことなく巡察を実行し、民の生活を掌握し、このような歌を示すことによって民の生活に規範を教えようとしたのであろう。こうした憶良の真面目な態度は、貧窮問答歌のようないわば社会の暗部を照らす歌の素地ともなったのではないか。
 国司である憶良は貧者でも窮者でもなかった。民の生活ぶりを顕にすることによって為政者の戒めとする意図もあったようにも思われる。当時、国司の職務は、令制によって「祠社、戸口、簿帳、百姓を字養し、農桑を歓課し、所部を糺察し、貢挙、孝義、田宅、良賎、訴訟・・」・等々、二十数事項にわたって細かに定められ、さらに戸令によって国司の心構えを諭している。およそ国司の守、介(次官)、掾(判官)、目(主典)は令制に定める所掌を全うすべきものとされた。しかし、一般的には規定で示す職務が官吏にどれだけ励行されたかはなはだ疑問である。律令制度の崩壊とともに官吏の体質も大いに変質していったものとみられ、憶良はだからこそ戸令を遵守する姿勢を歌にも詠みこんだのではないだろうか。
 「凡そ国の守は年毎に一たび属郡を巡行せよ、風俗を観、百年を問ひ、囚徒を録し、寃枉を理め、詳に政刑の 得失を察し、百姓の患苦する所を知り、敦く五教を諭し、農功を勧務し、部内に学を好み、道に篤く、孝悌、忠信、精白、異行の郷閭に発問したる者有らば、挙して進めよ、孝悌ならずして礼に悖り、常を乱り、法令に率はざる者あらば糺して縄せ」
 私たちは、憶良の詠歌に、人情の機微や世の中の裏面を詠う社会派、現実派詩人たる憶良を意識する。‘ 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ ’といった軽い調子の歌にすら私たちは憶良の良心を感じとるのである。そうした憶良の歌に潜む詩魂とは一体なんであるのか。
 実直な憶良が戸令を忠実に守り、実行したことは間違いないであろう。貧窮問答歌や対馬へ物資を運ぶ途中に遭難した荒雄の歌安芸国で不慮の死をとげた熊凝の歌など名もない農漁民によせる憶良の愛情は、戸令の忠実な実行を通じて形成されたものに違いない。
 稲築町内の鴨生公園や稲築公園に億良の万葉歌碑がある。万葉の故地でのんびりと過ごすのもよいだろう。-平成17年5月-
山上憶良の社会認識-消された憶良の詩歌の精神-
 私たちは万葉集を通読して、憶良の詩歌が独歩のそれであることに気付く。それは古今集以降の歌集から消し去られた憶良のスタイルであって日本文学史上、不世出のものだ。読むほどに憶良は単なる社会詩人でなかったことにも気付く。それは官吏という当時の支配者層に身を置きながら、権力の本質を民の生死や日常の中に見極めた憶良の慟哭でありつづけた。
 乞食や遊女から天皇まで万葉集の詠み手層の広さは類例がない。それが歌に採られた事物や情感等の多様性に結びつき、かつ誰にも有為の選択、改ざんを許さなかった。この意味においても、万葉集は世界にも比類のない日本民族の誇りと言ってよいだろう。
 憶良は遣唐使一行に加えられ、伯耆守、東宮侍講を経て筑前国守となり、親交のあった大伴旅人等とともに筑紫詩壇を形成し、旅人の部下となった。その華やかさは柿本人麻呂や高市黒人、山部赤人など正史に現れない微官の歌人とは少し様相が異なるが、上司であった旅人へ下される朝廷の処遇は憶良の処遇にも微妙な影響を与えたことであろう。
 大伴旅人は神亀5(728)年ころ太宰帥として筑紫にくだる。憶良が筑前守に任官されたのもそのころだ。中央政界では養老5(721)年に元明太上天皇(女帝)が崩御。聖武天皇はいまだ幼稚の趣であり、太上天皇は長屋王らに後事を託し元正天皇(女帝)に譲位。聖武天皇の即位は神亀1(724)年だった。この間、中央政界は藤原氏の協力の下、長屋王によって担われたが、聖武天皇の生母宮子の尊称問題やその子基王の立太子問題などでことごとく藤原氏と対立。旅人が筑紫へ旅立ったとみられる神亀5(728)年に朝廷は国家行政組織たる中衛府を創設し、藤原北家の房前が同府の大将に就任。長屋王に近い武門の棟梁大伴旅人を排除し、中衛府を藤原家の私兵化同然にして、着々と覇権への準備を整えていく藤原氏。翌神亀6(729)年2月、漆部造君足の讒言を奇禍として藤原氏は朝議にものを言わせ長屋王を死の渕に立たせる。長屋王は自経し薨じた。
 長屋王の変は藤原氏によって仕組まれた覇権への罠であったに違いない。旅人の西下と中衛府の設置はそのために描かれたストーリー。旅人はまんまと藤原氏の策略に陥れられ、食封や職府を増やして太る藤原氏一族。旅人や憶良は歌に何を託したものか。 
いかにあらむ日の時にかも声知らぬ人の膝の上我が枕かむ <巻5‐ 810>                     
 この歌は旅人が太宰帥在任中、長屋王の変後の天平元(729)年10月、対馬の青桐で作った琴に添えて贈った歌2首中の1首である。旅人は‘人(房前)の膝の上我が枕かむ’となんとも屈辱的な歌を奉げている。もはや金村以来の武門の棟梁としての誇りは微塵もなく、藤原氏にただただ助命を乞うているようにもみえる。覇者への媚は世の常かもしれないが、それが房前と旅人の間に築かれていた悪しからぬ関係からでた戯れ歌だったとしても時宜を考えると大分、違和感がある。そこには妻を失い、日々、酔哭する老いた旅人の後ろ姿しかみてとれない。
術も無く苦しくあれば出で走りななと思えど兒さやりぬ <巻5 899>
富人の家の子どもの着る身くたし棄つらむ絹綿らはも <巻5 900>
麁妙あらたえ布衣ぬのぎぬをだに着せ難くかくや歎かむむすべをみ <巻5 901>
                        
 山上憶良は神亀5(728)年ころまでには筑前国守となり、天平4年(732年)ころには任期を終えて帰京したとみられる。上の3首は帰京の翌天平5年(733年)6月に詠んだもの。この年憶良は伏床し藤原八束(北家)が遣わせた河辺東人の見舞いを受けるほど重篤な状態であった。結局、憶良はこの年に亡くなったとみられる。
 憶良もまた藤原北家の八束の好意から見舞いを受けており、旅人同様に藤原氏と良いかかわりをもった人物のようにもみえる。憶良は東宮(後の聖武天皇)の侍講を勤めるほどの識者であるから、農民の窮状や国司らの悪心を皇太子や重臣に直言しただろう。独り言のように意味もなくこのような作歌をするはずもなく、家持が集中に採る意味もあったわけだ。
 この時代の社会背景を見ると、藤原氏の専暴と長屋王の変に見る政情不安に加え、全国的に旱魃が続き都すら飢餓に見舞われた。憶良は官吏であった当時、接触のあった藤原氏に歌を謹上し、また大伴家等縁者に下層貧民の窮状を知らせていただろう。
 上の歌は、憶良の長歌中の ‘・・・ことごとは死ななと思へど、5月蠅なす騒ぐ兒を、棄てては死はしらず、見つつあれば心は燃えぬ・・・’(「重き馬荷に表荷打つ歌」)の反歌で4首中の3首である。術も無く苦しくあれば出で走り去ななと思ってみても、子らを思うと最後の決心もつかないと、茫然自失の境涯を激白する。2首目は、着る身無み腐し棄つらむ絹綿と、隔絶の貧富の差を歎き歌う。3首目は粗末な木綿の着物さえ着せられないと富者の浪費に対する貧者の窮乏を歎く。こうした憶良の目は筑前国守など地方生活を通じ体験した事実を歌に託することにより、政治の不備を糾し、権力者の行いに自戒を求めたものであろう。これほどまでに社会の暗部を歌う憶良に対し、朝議メンバーなど重臣は心安いはずもないが、憶良に直接の危害が加えられなかったのは憶良の学識が相当注目されまた、その出自が倭人が一種の憧れを抱いた帰化人であったのかなという思いを払拭できない。
 権力闘争に明け暮れ、民が疲弊しても富を吐き出さない富者が存在し、生死の境をさまよう庶民生活が無視されて良い政治といえるはずはない。しかし、こうした憶良の歎きは次第に詩歌の対象から疎外され、不穏ものとして隠されかつ直言できる資質を備えた歌人が生まれず、以降、その座を猿楽や田楽などに奪われてゆくのである。
 山上憶良は古代に花開いた独歩の歌人であるとともに、古代最高の教育者であり言論人であったといえるだろう。繰り返しになるが、「貧窮問答歌」や「重き馬荷に表荷打つ歌」などは名もない家系から身をおこした憶良であるから、内容から推して中衛府の官吏に逮捕されてもよさそうなほど強烈に社会の暗部や不安を折り込んだ歌である。しかし、憶良はこの時代、権力側にいて批判の対象とした藤原氏の黒幕とも見るべき八束が見舞いを遣わすなど、憶良は藤原氏をも黙らせるほどの高潔な人物であったのだろう。それを畏れ、傷み入っているのもまた八束だった。
水城の記憶-大宰府市、春日市等-


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丈夫ますらをと思へるわれや水茎みづくき水城みづきの上に涙のごはむ  <大伴旅人>  
 天平2(730)年、大納言となった太宰帥旅人は太宰府を去る。わずか3、4の太宰府滞在であった。着任して間もない頃、妻郎女が逝ってしまったにせよ、筑紫は旅人の思い出が詰まったところだった。標記の歌は、児島という遊行女婦の歌への返歌。そこにはもう、武門の名族大伴卿の氏の上の面目は感じられず、ただただ悲しみにくれる旅人。翌天平3(731)年7月、旅人は奈良の都で薨去。67歳の生涯であった。
 水城は、大宰府の安寧を保障し、また旅人ならずとも異郷へ旅立つ者に別れの悲しみを誘う象徴的な堤であった。四王寺山の尾根から左方に延びる細い線状の影が水城(写真上の中央部)である。官人は高さ10メートルにもなる水城の大堤の関門を出ると、前途に言い知れぬ不安を感じとったことであろう。大宰府市、大野城市の境界付近に残る水城大堤(写真右)や春日市の大土居(写真下)の水城が大宰府防衛のよすがをとどめている。
 日本と新羅の関係が緊張し、百済の救援のため奈良を旅立った斉明天皇が筑紫で崩御すると、中大兄皇子(天智天皇)は那の津(博多)から3万2000人余の兵士を乗せた軍船を2陣に分け朝鮮半島に進めたが、白村江の河口において唐、新羅連合軍の軍船170艘に挟撃され、大敗を喫した。日本は、西暦663年(天智2年)、約300年続いた百済経営から撤退を余儀なくされ、日本国内に激震がはしり緊張に包まれたことは想像に難くない。唐、新羅の連合軍の日本進攻は予断を許さない情況であったことであろう。日本書記は、・・・天智天皇三年、於筑紫築大堤貯水名曰水城・・・と伝えている。
 国土防衛の要として664年(天智3年)、大宰府周りに延々と水城の要塞が築かれたことは無論、対馬、壱岐、筑紫に烽火(狼煙台)、防人を配し、翌665年(天智4年)に大野城など大宰府周りに城を築き、また667年(天智6年)に金田城(対馬)や長門城(山口)、屋島城(香川)、高安城(奈良)を築城し大和に通じる瀬戸内海の守りを固めたのである。近世に至るまでこれらの大規模な施設がこれほど短期間に築造された経験を私達は知らない。豊臣秀吉の名護屋城築城をはるかに凌ぐ大事業であったであろう。
 水城の築堤に延べ60数十万人の農民が使役された。これら防衛施設の築造やの防人の徴用などの負担は、古代庶民史に暗い影を落とすことになったこともまた忘れてはならない事実であろう。-平成17年5月-
水城2 水城3 水城4
水城大堤 大土居水城(現地
案内写真から)
大土居水城
荒雄の悲劇-福岡市東区志賀島-
荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出て立ち待てど来まさじ <山上憶良>
                       
 万葉集に志賀島の漁師荒雄の海難にことよせて、妻子の悲しい気持ちを歌ったものが十首載せられている。「筑前国志賀白水郎歌十首」と題された詠歌で山上憶良作とされているが、作者については諸説ある。志賀島は、博多湾を囲む海の中道の先端部にある島。金印の発見地としても著名な島であるが、今は砂洲で陸地と連なっている(写真。上方が志賀島)。 福岡市内から車で30分ほど。博多から船の便もある。
  志賀島は、古代においては、船を操り漁撈や海上交通に従事した海人・安曇族が住まいしたところである。荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。荒雄の悲運は当時、人々の涙を誘ったのであろう。憶良は詠う。“船に小舟引き添え潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも”と。
 憶良は、肥後国益城郡の大伴君熊凝くまこりという18歳の青年が国司に従って都に上る途中、安芸(現在の広島)の宮島が見える高庭の駅家で亡くなるという事件を詠んだ歌をのこしている。憶良のこうした名もない人々の死を悼む心は、当時の社会にあっては異色である。荒雄の詠歌もやはり憶良がよんだものであろう。(参考:憶良の慟哭