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佐賀 |
名護屋城址−唐津市− |
玄海灘の洋上に加部島が浮かび、呼子大橋が架かる。その向こうに壱岐の島が見え、うっすらと対馬が浮ぶ。眼下では波戸岬の岩に白波がはじける。名護屋は朝鮮半島に近く、兵站基地としてよい条件を備えていたばかりか、秀吉が描いたであろうルソン、インドを含むアジア攻略の適地であったのだろう。島津義弘、生駒正親ら九州、四国の雄藩の将が陣取り、その後方に上杉、九鬼、福島らの諸将が陣取った故地が展開する鎮西の城・名護屋城天守閣跡からの眺めである。
名護屋城は豊臣秀吉が野望の城。朝鮮半島のみならず明国の征服の野望をかけた本陣(根城)だった。戦役は文禄・慶長の役(1592〜1598)となって前後7年間続いた。理不尽極まりのない理由のない出兵であった。主に九州、西国の武将が朝鮮に渡り、文禄の役に16万人、慶長の役で14万人の兵を進めた秀吉であったが、秀吉の死とともに日本軍は撤退。何の成果を得ることもなかったと評される出兵だった。
秀吉のインド、ルソンをも視野に入れたアジアの征服ともいうべき野望はまったく奇怪である。秀吉は、喜々として明国征服の夢を書状にしたためてはいるが、出兵にいたる動機を語ってはいない。九州、四国を平定した秀吉は諸将の領土欲をたくみに操り、明国や李朝或いは欧州文化への己のコンプレックスを出征にすりかえたのではないだろうか。茶道は支配階級のたしなみとして室町時代から流行しはじめ秀吉の桃山時代に極点に達する。茶陶の名器は、宋や元、高麗や李朝のものを指し、日本の5窯や志野、黄瀬戸、織部などの美濃焼が茶人にもてはやされることがあっても、それはしょせん李朝などの「写し」であることにはかわりがなかった。秀吉が茶陶の源流を手中にしたいと願ったとしても不思議はない。
文禄・慶長の役で九州の諸将が朝鮮国から連れ帰った陶工などの数は5〜6万人ともいわれる。志願して来日する者もあったと伝えられ、朝鮮半島から陶工が消えたといわれるほどの来日だった。当時、日本の5窯は丹波、備前、瀬戸、信楽、越前であり、分流に瀬戸から分かれた美濃があった。九州には名のある窯が存在しなかった。諸将の思惑も領土への野心が出征を促したにせよ、朝鮮の陶工に対する期待も大きいものがあったろう。大事に処遇したという。九州各地に今も文禄・慶長の役によって来日した朝鮮の陶工が開いた窯が残り、陶磁器に選択的な光りを放ち続けているのである。
朝鮮軍の日本軍への抵抗は粘り強いものがあった。朝鮮はもともと日本のような大名が群居した歴史のない国である。王制とそれを支える官僚、軍人によって統治されてきた国であった。官僚らは中国風の科挙によって選抜され、両班層を形成し教養もあり農民の信頼を得ていたから、義兵軍を組織し明兵とともに日本軍を大いに悩ませた。慶長の役の終末には加藤清正らが築いた蔚山城(慶尚道)が7万人の明・朝鮮連合軍に包囲され、清正は遺書まで書いたように苦戦の連続だった。李瞬臣の攻略にはまり藤堂高虎の率いる133艘の水軍が僅か13艘の朝鮮水軍に破られ制海権を失うなど、もはや秀吉の野望は風前の灯。秀吉の死とともに7年にわたった朝鮮出征も幕を下ろしたのだった。
名護屋城址(写真上)に立つと、秀吉が新築の五層の天守閣から両手を挙げ、見渡したであろう広々とした海がひろがっている。朝鮮半島まで100キロ余。玄海のかなたに、20箇所余の倭城の石垣が蜃気楼となってみえる錯覚を覚える。名護屋城は、大坂城に次ぐ規模の天下の巨城だった。本丸、三の丸、東の丸、大手口等々・・・。城郭の石垣が累々として西海の城の在り処を告げている。
名護屋城跡に隣接して佐賀県立名護屋博物館がある。開放感のあるよい博物館である。展示品も充実している。−平成17年− |
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大手口跡 |
天守閣跡 |
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