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福岡 |
志賀島−福岡市東区− |
金印発見地(金印公園) |
ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神 <万葉集> |
志賀島は玄海灘の要害の島。瀬戸内海から筑紫へ或いは筑紫から壱岐、対馬を経て大陸に旅する人々が航海の安全を祈願した島だった。奴国の使者を大陸に導いたであろう阿曇族が住処とし、先進の文物を媒介することもあった志賀島は、私たち日本人の原点の島ではないだろうか。島に建つ志賀海神社は、阿曇連らが奉斎した社であると古事記、日本書紀は伝える。
後漢書東夷伝は、″建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国之極南界也光武賜以印綬″と記す。西暦57年、我が国初の使節が大陸へ雄飛し、1748年(天明4年)、漢から得た「漢委奴國王」の金印(写真右中段)が志賀島から発見された。発見地は、島の南部、能古島との海峡をのぞむ山腹にあり、記念碑が立っている。金印の実務的な用途も考えられず、重要な海峡に貴重な金印を埋納することによって、交易の発展や海上の安全を祈願したものであろうか。あるいは後年、足利時代に
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志賀海神社歩射祭 |
大内氏が足利家の日本国王の印を使用して明と交易を行ったのと同様に、奴国において交易に携わった志賀島の阿曇族が交易に用いた実用品であったのかもしれない。つまり、卑弥呼の時代に、三韓や魏の帯方郡向けの交易品が伊都国において検査されたように、そのはるか前代においても、対大陸向けの交易につき倭の奴国王が中国に交易特権を求めた証としての金印ではなかろうかと考えるのである。四周の国々と交易を行った中国は、そうした手続きには相当やかましい国である。そうすると、金印は物品送付に当たり、志賀島で確認しその数量等をしたためた竹簡乃至木簡を泥で封じた上に押印する実用品であったと考えられる。対馬に志賀島同様に綿津見神を奉祀した神社があり、同族によって交易ルートが確保されていたのだろう。志賀島はヤマト王権が栄えた頃、難波津が栄えたように、繁華な貿易港であったに違いない。
金印の実物は福岡市博物館に常設展示されている。日本最古のクニのよすがを古の奴国で偲ぶのもよいだろう。感動的な輝きを放っている。
島に建つ志賀海神社は、綿津見三神を祀り阿曇族が依拠した社である。歩射祭、御神幸祭、山ほめ祭などの祭事に古色をとどめている。
志賀島周りには、1274年(文永11年)、博多湾で戦死した蒙古軍兵士の慰霊碑蒙古塚や1281年(弘安4年)、蒙古軍の再来を恐れ高野山の僧侶が護摩を焚き戦勝祈願した火焔塚など元寇関係の遺跡も多い。
志賀島は、博多湾の東に、細く長い砂洲の先端に連なる島である。砂洲は香椎から約20キロメートル、海の中道として公園化され周年訪れる人の多いところ。砂洲を抜け志賀島大橋を渡ると志賀島。周囲11キロメートルほどの島である。新鮮な魚介を求め訪れる人も多い。 |
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海の中道から志賀島を
のぞむ |
志賀海神社 |
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