神亀6(729)年2月、長屋王は薨じた。妻吉備内親王と膳部王ら4人の王子も自経するというなんとも凄惨な事態となった。
倉橋部女王は詠う(冒頭の詠歌)。左大臣長屋王は、元明天皇の遺詔により後事を託された政界の主導者であった。しかし、寿命を経ぬまま雲隠れされたと。
漆部造君足の讒言により謀反の疑いをかけられた長屋王は、朝議メンバーであった藤原武智麻呂や舎人親王、新田部親王らに糾問され、聖武天皇の勅命により、その10日余のうちに王らは佐保の地に滅した。長屋王年45歳。
長屋王は天武天皇の長子高市皇子の子。母は天智天皇の皇女御名部妃。ゆくゆくは、父高市皇子の最終官職であった太政大臣を嘱望されていたとしても何の不思議もなかった。
長屋王は僧侶の管理や非違にも厳しく対処したから、今昔物語などで伝えられるように曲解されることもあった。倫理や皇統にも厳格な態度を崩さず、聖武天皇の生母、藤原宮子の尊称を大夫人とする詔勅はそもそも宮子は皇族でなかったから、その尊称を変えさせた経緯がある。また、聖武天皇と宮子の子、基皇子が生後間もなく立太子するという従来の規範から飛び出る藤原氏の発想にわだかまりもあっただろう。朝議メンバー6人中、藤原房前とその兄武智麻呂は藤原一族の牽引車として中央政界で幅を利かせ、聖武天皇を巻き込んで、皇親の長屋王と対決するという構図のなかで、朝廷の権力闘争は一層激化していった。
長屋王の父高市皇子は、天武天皇を父として生母は筑紫の宗形君徳善の娘、尼子媛であり皇族でなかったから、壬申の乱の功労者でありながら皇位継承に慎重な姿勢を示し自重していた。そうした父高市皇子の生き方というものが長屋王の処世に少なからず影響を与えていたであろう。藤原一門のいらいらはことごとく長屋王に向けられるようになり、漆部造君足の讒言を奇禍として、長屋王を死の渕に立たせたのである。
長屋王の変は、その後の廷臣の邪心と専横が高じた恵美押勝の乱とはまったく性格を異にする事件であった。
平群町梨本に長屋王墓(写真上)とその夫人吉備内親王の墓(写真左下)が、平群の深い谷を見下ろす山腹にある。近年、王墓付近の山裾にも住宅開発が進みせわしくなった。
王墓近くの上庄に紀氏神社(写真右下)がある。延喜式の明神大社である。紀氏の祖が割拠したところであろう。このあたりにはまだよい田園風景が残っている。 |