憶良の慟哭−佐伯郡大野町−
出でて行きし日を数へつつ 今日今日けふけふを待たすらむ父母らはも  <万葉集 山上憶良>
山陽道往還
山陽道往還 歌碑
 西暦731年(天平3年)6月17日、相模使い某国司の従者となって肥後国益城郡を発ち都に向かった大伴君熊凝くまこりという18歳の青年がいた。熊凝は、病を得て安芸国佐伯郡の高庭の駅家うまやで亡くなってしまう。
 高庭を大野町の高畑に当てる説があるが、延喜式の佐伯郡内の五駅中に該当する駅がなく、確証が得られていない。高畑は高庭の発音に近く、たぶんその辺りに駅家があったのだろう。
 駅家の故地に小道があり、路傍に地蔵堂がある。「文久元年(1861年)、諸人安全処」と刻まれた石灯籠がみえる。小道は古の山陽道往還である。
 地蔵堂の前に、・・・今日今日と吾を待たすらむ・・・の歌碑がたっている(写真下)。ゆくほどにうらさみしい杣道が山裾を縫っている(写真左)。
 熊凝の死は、その若さから多くの人々の涙を誘ったことであろう。天平3年のころ憶良は筑前守在任中かと思われる。青年の死を悼み、大宰府大典麻田陽春やすが短歌2首を献じ、憶良が長歌1首、短歌5首を詠じている。・・・ひとりの身に死に向かう途をうれへず、ただしふたりの親のいます苦しみを悲しぶ・・・と死にゆく熊凝の心を汲んだ憶良の嘆きは悲痛である。熊凝は己の死よりも、ちちははの悲しみを慮ったであろうと嘆く憶良の倫理観は幾重にも増幅され、古代の人々の精神世界を培っていったであろう。
 憶良のこうした名もない人々にそそがれた愛情は、荒雄の遭難事件の歌などにもみえる。−平成18年5月−

日本人の情感
 平家物語に描かれた敦盛の最期の場面は、日本人の情感をくすぐる悲劇として私たちの脳裏にいきている。
 熊谷直実が平家の大将を馬から引きずりおろし、首をはねようとして兜をとると16歳ほどの若武者であった。直実は若武者を助けてやろうとして名を尋ねる。若武者は横柄な態度で名を明かさず、「首を取って人に問へ」という。それでも直実は、息子小次郎がかすり傷ほどの怪我でも動転してしまったわが身のことを思い、若武者の両親が息子の死を知れば嘆き悲しむだろうと察する。しかし、見逃してもやがて若武者は殺されるだろうと思った直実は、若武者の冥福を祈るために出家すると約束して若武者の首を落とす。鎧を脱がせると錦織の袋に入った笛が見つかる。その日の朝、敵陣から響いていた笛の音であったかもしれない。若武者は平家の公達敦盛であった。
 敦盛の首をはねた直実は、優雅のたしなみなど考えられない東男。直実をして敦盛の殺害を意識したとき、直実は敦盛の父母の嘆きを思うのである。こうした死にまつわる感情の移転は、すでに憶良の熊凝を悼む歌にあらわれているのであり、憶良の教育者としての素養の高さを思わずにはいられない。
 こうした情感は、近世に至っても日本人の伝統的情感として失われることはなく、臨死にあって父母への思いやりとして、近松の「曽根崎心中」や「心中天の網島」などでもしばしば表現されるのである。
 「・・・我らが父様母様はまめで此の世の人なれば。いつ遭う事のあるべきぞ便りは此の春聞いたれども。逢うたは去年の初秋の初が心中取沙汰の。明日は在所へ聞えなば如何ばかりか嘆きをかけん。親たちも兄弟へもこれから此の世の暇乞。せめて心が通じなば夢にも見えてくれよかし。懐しの母様や名残惜しの父様やと。・・・」   <曽根崎心中>
曽根崎心中 遊女お初がしゃくり上げ、しゃくり上げすると、手代徳兵衛もわっと叫びいる情景描写は、曽根崎心中のクライマックス。大近松の世話浄瑠璃の第一作で、以降、近松が時代浄瑠璃を中心とした浄瑠璃界に一石を投じ、世話浄瑠璃を確立することになった作品である。歌舞伎より二十数年遅れての上演であったが、いまでも人気の世話物だ。・・・(心中したことが)明日は在所へ聞えなば如何ばかりか嘆きをかけん、と死に行く我が身を差置いて、父母の嘆きを案ずるのである。