九州絶佳選
福岡
鴨生の憶良−稲築町 
  
瓜食めば子ども思はゆ栗食めばまして偲ばゆ 何処より来たりしものぞ眼交にもとな懸りて安眠し寝さぬ <万葉集巻5 802>

しろがねくがねも玉も何せむに勝れる宝 子に及かめやも <万葉集巻5 803>
 
 上の2首は、神亀5(728)年、筑前国守山上憶良が嘉麻郡(現嘉穂郡)の郡家において撰定した万葉歌である。憶良は、国司に課せられた年1度の国内巡察の折、遠賀川のほとりに所在した郡家(鴨生の役所址辺りか)でこの歌を撰した。実直な億良は毎年、欠かすことなく巡察を実行し、民の生活を掌握し、このような歌を示すことによって民の生活に規範を教えようとしたのであろう。こうした憶良の真面目な態度は、貧窮問答歌のようないわば社会の暗部を照らす歌の素地ともなったのではないか。
 国司である憶良は貧者でも窮者でもなかった。民の生活ぶりを顕にすることによって為政者の戒めとする意図もあったようにも思われる。当時、国司の職務は、令制によって「祠社、戸口、簿帳、百姓を字養し、農桑を歓課し、所部を糺察し、貢挙、孝義、田宅、良賎、訴訟・・」・等々、二十数事項にわたって細かに定められ、さらに戸令によって国司の心構えを諭している。およそ国司の守、介(次官)、掾(判官)、目(主典)は令制に定める所掌を全うすべきものとされた。しかし、一般的には規定で示す職務が官吏にどれだけ励行されたかはなはだ疑問である。律令制度の崩壊とともに官吏の体質も大いに変質していったものとみられ、憶良はだからこそ戸令を遵守する姿勢を歌にも詠みこんだのではないだろうか。
  「凡そ国の守は年毎に一たび属郡を巡行せよ、風俗を観、百年を問ひ、囚徒を録し、寃枉を理め、詳に政刑の 得失を察し、百姓の患苦する所を知り、敦く五教を諭し、農功を勧務し、部内に学を好み、道に篤く、孝悌、忠信、精白、異行の郷閭に発問したる者有らば、挙して進めよ、孝悌ならずして礼に悖り、常を乱り、法令に率はざる者あらば糺して縄せ」
 私たちは、憶良の詠歌に、人情の機微や世の中の裏面を詠う社会派、現実派詩人たる憶良を意識する。‘ 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ ’といった軽い調子の歌にすら私たちは憶良の良心を感じとるのである。そうした憶良の歌に潜む詩魂とは一体なんであるのか。
 実直な憶良が戸令を忠実に守り、実行したことは間違いないであろう。貧窮問答歌や対馬へ物資を運ぶ途中に遭難した荒雄の歌安芸国で不慮の死をとげた熊凝の歌など名もない農漁民によせる憶良の愛情は、戸令の忠実な実行を通じて形成されたものに違いない。
 稲築町内の鴨生公園や稲築公園に億良の万葉歌碑がある。万葉の故地でのんびりと過ごすのもよいだろう。−平成17年5月−

山上憶良の社会認識−消された憶良の詩歌の精神−
 私たちは万葉集を通読して、憶良の詩歌が独歩のそれであることに気付く。それは古今集以降の歌集から消し去られた憶良のスタイルであって日本文学史上、不世出のものだ。読むほどに憶良は単なる社会詩人でなかったことにも気付く。それは官吏という当時の支配者層に身を置きながら、権力の本質を民の生死や日常の中に見極めた憶良の慟哭でありつづけた。
 乞食や遊女から天皇まで万葉集の詠み手層の広さは類例がない。それが歌に採られた事物や情感等の多様性に結びつき、かつ誰にも有為の選択、改ざんを許さなかった。この意味においても、万葉集は世界にも比類のない日本民族の誇りと言ってよいだろう。
 憶良は遣唐使一行に加えられ、伯耆守、東宮侍講を経て筑前国守となり、親交のあった大伴旅人等とともに筑紫詩壇を形成し、旅人の部下となった。その華やかさは柿本人麻呂や高市黒人、山部赤人など正史に現れない微官の歌人とは少し様相が異なるが、上司であった旅人へ下される朝廷の処遇は憶良の処遇にも微妙な影響を与えたことであろう。
 大伴旅人は神亀5(728)年ころ太宰帥として筑紫にくだる。憶良が筑前守に任官されたのもそのころだ。中央政界では養老5(721)年に元明太上天皇(女帝)が崩御。聖武天皇はいまだ幼稚の趣であり、太上天皇は長屋王らに後事を託し元正天皇(女帝)に譲位。聖武天皇の即位は神亀1(724)年だった。この間、中央政界は藤原氏の協力の下、長屋王によって担われたが、聖武天皇の生母宮子の尊称問題やその子基王の立太子問題などでことごとく藤原氏と対立。旅人が筑紫へ旅立ったとみられる神亀5(728)年に朝廷は国家行政組織たる中衛府を創設し、藤原北家の房前が同府の大将に就任。長屋王に近い武門の棟梁大伴旅人を排除し、中衛府を藤原家の私兵化同然にして、着々と覇権への準備を整えていく藤原氏。翌神亀6(729)年2月、漆部造君足の讒言を奇禍として藤原氏は朝議にものを言わせ長屋王を死の渕に立たせる。長屋王は自経し薨じた。
 長屋王の変は藤原氏によって仕組まれた覇権への罠であったに違いない。旅人の西下と中衛府の設置はそのために描かれたストーリー。旅人はまんまと藤原氏の策略に陥れられ、食封や職府を増やして太る藤原氏一族。旅人や憶良は歌に何を託したものか。 
いかにあらむ日の時にかも声知らぬ人の膝の上我が枕かむ <巻5 810>
 この歌は旅人が太宰帥在任中、長屋王の変後の天平元(729)年10月、対馬の青桐で作った琴に添えて贈った歌2首中の1首である。旅人は‘人(房前)の膝の上我が枕かむ’となんとも屈辱的な歌を奉げている。もはや金村以来の武門の棟梁としての誇りは微塵もなく、藤原氏にただただ助命を乞うているようにもみえる。覇者への媚は世の常かもしれないが、それが房前と旅人の間に築かれていた悪しからぬ関係からでた戯れ歌だったとしても時宜を考えると大分、違和感がある。そこには妻を失い、日々、酔哭する老いた旅人の後ろ姿しかみてとれない。
術も無く苦しくあれば出で走りななと思えど兒さやりぬ <巻5 899>

富人の家の子どもの着る身くたし棄つらむ絹綿らはも <巻5 900>

麁妙あらたえ布衣ぬのぎぬをだに着せ難くかくや歎かむむすべをみ <巻5 901>
 
 山上憶良は神亀5(728)年ころまでには筑前国守となり、天平4年(732年)ころには任期を終えて帰京したとみられる。上の3首は帰京の翌天平5年(733年)6月に詠んだもの。この年憶良は伏床し藤原八束(北家)が遣わせた河辺東人の見舞いを受けるほど重篤な状態であった。結局、憶良はこの年に亡くなったとみられる。
 憶良もまた藤原北家の八束の好意から見舞いを受けており、旅人同様に藤原氏と良いかかわりをもった人物のようにもみえる。憶良は東宮(後の聖武天皇)の侍講を勤めるほどの識者であるから、農民の窮状や国司らの悪心を皇太子や重臣に直言しただろう。独り言のように意味もなくこのような作歌をするはずもなく、家持が集中に採る意味もあったわけだ。
 この時代の社会背景を見ると、藤原氏の専暴と長屋王の変に見る政情不安に加え、全国的に旱魃が続き都すら飢餓に見舞われた。憶良は官吏であった当時、接触のあった藤原氏に歌を謹上し、また大伴家等縁者に下層貧民の窮状を知らせていただろう。
 上の歌は、憶良の長歌中の ‘・・・ことごとは死ななと思へど、5月蠅なす騒ぐ兒を、棄てては死はしらず、見つつあれば心は燃えぬ・・・’(「重き馬荷に表荷打つ歌」)の反歌で4首中の3首である。術も無く苦しくあれば出で走り去ななと思ってみても、子らを思うと最後の決心もつかないと、茫然自失の境涯を激白する。2首目は、着る身無み腐し棄つらむ絹綿と、隔絶の貧富の差を歎き歌う。3首目は粗末な木綿の着物さえ着せられないと富者の浪費に対する貧者の窮乏を歎く。こうした憶良の目は筑前国守など地方生活を通じ体験した事実を歌に託することにより、政治の不備を糾し、権力者の行いに自戒を求めたものであろう。これほどまでに社会の暗部を歌う憶良に対し、朝議メンバーなど重臣は心安いはずもないが、憶良に直接の危害が加えられなかったのは憶良の学識が相当注目されまた、その出自が倭人が一種の憧れを抱いた帰化人であったのかなという思いを払拭できない。
 権力闘争に明け暮れ、民が疲弊しても富を吐き出さない富者が存在し、生死の境をさまよう庶民生活が無視されて良い政治といえるはずはない。しかし、こうした憶良の歎きは次第に詩歌の対象から疎外され、不穏ものとして隠されかつ直言できる資質を備えた歌人が生まれず、以降、その座を猿楽や田楽などに奪われてゆくのである。
 山上憶良は古代に花開いた独歩の歌人であるとともに、古代最高の教育者であり言論人であったといえるだろう。繰り返しになるが、「貧窮問答歌」や「重き馬荷に表荷打つ歌」などは名もない家系から身をおこした憶良であるから、内容から推して中衛府の官吏に逮捕されてもよさそうなほど強烈に社会の暗部や不安を折り込んだ歌である。しかし、憶良はこの時代、権力側にいて批判の対象とした藤原氏の黒幕とも見るべき八束が見舞いを遣わすなど、憶良は藤原氏をも黙らせるほどの高潔な人物であったのだろう。それを畏れ、傷み入っているのもまた八束だった。