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福岡 |
荒雄の悲劇−福岡市東区志賀島− |
荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出て立ち待てど来まさじ (山上憶良) |
万葉集に志賀島の漁師荒雄の海難にことよせて、妻子の悲しい気持ちを歌ったものが十首載せられている。「筑前国志賀白水郎歌十首」と題された詠歌で山上憶良作とされているが、作者については諸説ある。志賀島は、博多湾を囲む海の中道の先端部にある島。金印の発見地としても著名な島であるが、今は砂洲で陸地と連なっている(写真。上方が志賀島)。 福岡市内から車で30分ほど。博多から船の便もある。
志賀島は、古代においては、船を操り漁撈や海上交通に従事した海人・安曇族が住まいしたところである。荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。荒雄の悲運は当時、人々の涙を誘ったのであろう。憶良は詠う。“船に小舟引き添え潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも”と。
憶良は、肥後国益城郡の大伴君熊凝という18歳の青年が国司に従って都に上る途中、安芸(現在の広島)の宮島が見える高庭の駅家で亡くなるという事件を詠んだ歌をのこしている。憶良のこうした名もない人々の死を悼む心は、当時の社会にあっては異色である。荒雄の詠歌もやはり憶良がよんだものであろう。(参考:憶良の慟哭) |
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