福岡 |
憶良の悲しみ |
万葉集巻5に、旅人邸で宴が催され梅花の歌をうたった記事が見える。題詞に、「梅花謌卅二首并序」として「天平二年正月十三日 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉
蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖・・・詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠」とある。旅人の漢詩文趣味は玉島川(今の松浦川)を詠った詩歌と同様に梅花にも感染させ、藤原氏に圧され昇進の望みを失いかけた己が境涯の不安を詩歌や学識を通じ中央官人に訴える意図も隠されていたかもしれない。この梅花の題詞は中国・南北朝時代に編まれた「文選」など漢籍の知識を駆使して書かれている。旅人は宴に九州諸国の国守を居並ばせ己の指導、支配力を示すことも忘れてはいなかった。そうした格好のデモンストレーションは旅人を頼った憶良の演出であったとしても不思議ではない。契沖や真淵は梅花の宴の題詞は憶良作と指摘していることも興味深い。いざ、梅花の宴にご案内することとしよう。 |
春さればまず咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ <山上憶良> |
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも <大伴旅人> |
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天平2(730)年正月13日、大宰帥大伴旅人邸で梅花の宴が催された。太陽暦の2月8日。渡来の梅の花がほころぶ頃だ。大宰府中央官人や九州諸国の官人32名が会した。山上憶良がいる、小野老、沙弥満誓がいる、大伴百代もいる。主賓の大弐紀男人卿(大宰府次官)が、「正月たち春の来たらば・・・」(写真左の歌碑)と詠う。梅を客人に見立て先ずは宴のあいさつ。
旅人邸は都府楼の北西あたりにあったといわれる。大野山の山裾に近く、大極殿の甍越しに月山が見える展望のよいところだ。
次いで憶良が「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」と詠う。やがて旅人が「わが園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも」とうたい宴は進む。
憶良の歌は、家持の「うらうらに照れる春日にひばりあがり情悲しもひとりしおもへば」の歌の視点に近いものを感じさせる。このとき、家持は13歳ころであった。
「憶良らはいまは罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらんぞ」と詠じる憶良の軽い調子の歌とは異なる陰影を滲ませている。
憶良は、40歳を過ぎ遣唐使の少録となって唐土を踏み、帰朝後は皇太子(聖武天皇)の侍講を務め、類聚歌林を著し漢詩文にも堪能な人であった。唐土に在っては、「いざ子どもはやくやまとへ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ」と詠む憶良。憶良の素性や知るよしもなく、憶良と旅人の私的な関係もよく分からない。旅人は右大臣不比等を頂点とする有力な廷臣であり、憶良は東宮に近侍する学者であった。両者の地位に大きな隔があったにせよ互いに認知する間柄ではなかったか。中央政界における旅人の劣勢に憶良は自らの境涯を重ね合わせて共感するところもあったのだろう。
神亀5(728)年ころ大宰帥に任ぜられた旅人。その子家持らを連れ筑紫に赴いた旅人だった。このとき、すでに筑紫には筑前守憶良、造観世音寺別当沙弥満誓、大宰少弐小野老らがいた。奇しくも当代の代表歌人が遠の朝廷とうたわれた大宰府に集結し、筑紫詩壇ともいうべき歌壇が形成されたのである。
旅人は憶良を見出したからこそあえて幼い家持や弟の書持を筑紫に伴ったのではないか。家持を武門の宗主に育てるため、憶良をいわば家持の家庭教師にと頼む気持ちが旅人にあったのではなかろうか。「うらうらに照れる春日にひばりあがり情悲しもひとりしおもへば」 と詠う家持の古今調のリズムを感じさせる歌の素地が、このころに育まれたのでないかと思う。
天平元(729)年2月中央では無位の東人らの誣告(続日本紀)により左大臣・長屋王が自尽に追い込まれ、同年8月光明子が立后。旅人には憂鬱な日々が続いたことであろう。大納言に昇進し大和に戻った旅人が天平3(731)年7月に死亡すると、翌月に宇合ら藤原4兄弟が諸司の主典以上の者約400人の推薦を受け参議となる。廷臣幹部から大伴氏らの旧族が駆逐され、朝廷が唸りをあげ藤原氏中心に回りはじめる。このころ、朝廷は新羅との関係悪化を理由に諸道に、鎮撫使(後の節度使)を国司の上に置き、軍政の強化を図る。これもまた外憂にかこつけ、大伴氏ら旧族の反乱を警戒した藤原氏の画策とも考えられる。相前後して朝廷は山背などに所在する官人の陸田や国司の墾田を公収しており、いわば藤原政権は物心両面から対抗勢力の出現を阻止し、政権の安定化に並々ならぬ決意を示したものといえるだろう。
太宰府にあって、還暦を過ぎ当地に遣られたのも藤原氏の差配からかと深い憂鬱に沈む旅人の心を大伴一族が共有したことは想像に難くない。筑紫で妻大伴郎女を亡くし、ようやく大和に戻った旅人の心は一層沈み、名族の棟梁の影すら見出すことはできない。(写真(上2枚)は大宰府展示館のジオラマを引用)。 |
沫雪のほどろほどろに降り敷けば平城の都し思ほゆるかも 〈大伴旅人〉
世の中は空しきものと知る時しいよいよますます悲しかりけり 〈大伴旅人〉
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旅人は、藤原氏の台頭と長屋王の横死など一連の政変と自身への処遇につき一片の感想も述べてはいない。長屋王の変と相前後して大宰帥に任じられ形式上、栄進した旅人であった。しかし、朝廷内の政治地図や年齢等から推し、大臣への昇進を絶たれた旅人の悲嘆を誰もが共有していた。だからこそ旅人は、唐代の小説遊仙窟にヒントを得た「松浦河に遊びて贈り答ふる歌二首並に序」のような万葉世界をうたいあげ慰戯としたのではないだろうか(参照:松浦川)。この梅花の宴も文選などの漢詩文からヒントを得て催されたことは冒頭、しるしたとおりである。
梅花の宴の日、華やかな雰囲気とは異なる憂鬱が旅人を囲む人々を覆っていたことであろう。
長屋王の変後、天然痘の流行などで天平9(737)年、藤原宇合などが死亡すると、大伴家持と親交のあった橘諸兄が大納言に就任し政権が発足。しかし、天平勝宝8年(756年)2月、諸兄は讒言にあい辞任し、翌年薨去。大伴一族に次々と迫る不運は、旅人亡き後も家持の憂鬱を誘ったことであろう。
多感な時代を筑紫で過ごし、旅人が大和で薨去したとき家持は13歳ほどの若さ。安積親王との親交が伝えられるが、有力な皇位継承者だった親王も天平16(744)年、17歳の若さで急死。藤原仲麻呂が仕掛けた暗殺説がある。旅人亡き後、家持が望んだ安積親王の即位も幻となり、家持の期待も淡雪のごとく消え去ったのである。
大伴氏の没落は名族でもなく大伴氏を頼りに必死に生きた憶良の悲しみでもあったに違いない。大伴一族に次々と迫る政変や藤原氏の專暴或いは不安定な国際情勢は憶良に悟道を感じさせつつ、憶良の愛情は子や四囲の名もなく貧しい人々に注がれる。
術も無く苦しくあれば出で走り去ななと思えど兒等に障りぬ 〈万葉集 山上憶良〉
富人の家の子等の著る身無み腐し棄つらむは絹綿らわも 〈万葉集 山上憶良〉 |
それは、「日本挽歌」、「男子名は古る日を恋ふる歌」、「熊凝の為に其の志を述ぶる歌に敬いて和う、六首並びに序」、「筑前国志賀の白水郎の歌十首」から、次第に自らの死に迫る不安や富者への怒りを滲ませつつ、「貧窮問答歌」のようないわば世間の詩歌を詠み、人の世の真実を見出さんとする最晩年の憶良がいて、死にうろたえときに激情を爆発させる。病みそしてひたすら実直に生きる憶良。何とも人間的である。−平成18年2月− |
参考 : 山上憶良の社会認識−消された憶良の詩歌の精神− |
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