梛の宮の秋祭り(木熊野神社)−善通寺市中村町− |
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梛の宮の秋祭り |
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梛の宮 |
■ 我拝師山の麓を祭りの行列が往く。先導は斧を持った猿田彦。その後ろにオウトウ(頭屋)、太鼓、供物、梛(ナギ)、マトイタ(青竹の先に結わえた四角の杉板)や幟を持つ従者、神官、巫女、稚児などが続き、黄金に色づいた田園をゆっくりと梛の宮(木熊野神社。写真左)に向かう。善通寺の近郊、中村地区の秋祭りの風景である。
梛の宮の秋祭りは、ふだん見なれた秋祭りとは少し様子が違っている。大変、古風なものである。今年の梛の宮の秋祭りは、10月4日宵宮、5日本祭だった。
祭りを取り仕切る頭屋は、神官らとともに祭りの1週間ほど前に神社前の出水(デスイ。湧水)でシオカワジンジというみそぎを行い、この時神具が洗われる。この神事は古来、厳格に守られているとのことである。御輿は、頭屋宅に設けられた仮設の社殿前にあらかじめ運ばれる。 宵宮の日から獅子舞が地区の家々を回りはじめる。中村地区の5つの集落から、かわるがわる獅子舞が頭屋宅を訪れ、家神を含め都合3回、獅子舞が舞われる。夕刻になると、梛の宮の石舞台で神楽が奉納される。 |
本祭の日、まず頭屋宅で神事が執り行われウラヤス舞が奉納される。その後、祭りの行列は頭屋宅を出発し、ゆるりゆるりと田園を歩み御旅所に向かう。行列より一足早く頭屋宅を出発し、集落内を巡行していた御輿は、御旅所近くで行列と合流することになっている。 |
出水 |
社殿と御輿(頭屋宅) |
頭屋神事 |
祭りの隊列(頭屋前) |
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■ 行列が御旅所に着くと、一段高く設けられた石造りの御輿場に御輿は鎮座し神事が執り行われる。御輿に米が供えられるがこれはご神体となる玄米のようである。その脇で、「ウラヤス舞」が奉納され獅子舞が行われる。鉦、太鼓にあわせ5集落6組の獅子が舞う。壮観なものである。舞いの調子は組によって少しづつ異なっているが、祭りの雰囲気を一層盛り上げる重奏効果がある。大変エネルギッシュな獅子舞である。獅子舞の調子をとる太鼓は、童子がときおり一本足で身体を回転させながら打つ。ヨナラシ(夜稽古)の賜物であろう。実に華やかである。
神事が終わると、御輿は御旅所を出て梛の宮に向かう。神幸中、要所要所で御輿を待ち受けるようにして都合3地点で獅子舞が舞われる。厳かな行列と激しい調子の獅子舞である。獅子舞の1回目は、イブキ(柏。ヒノキ科)の大樹が茂る「若宮神社」の狭い境内で舞われる。樹齢500年に近い、幹周り6メートルほどのイブキの木に獅子頭を向け激しく舞い踊り、行列を待ち受ける。
■ 御輿は若宮を経て梛の宮参道の鳥居にさしかかると、青竹に結わえられた板を鳥居に打ち付け壊される。ばらばらになった板切れを持ち帰ると無病息災、米の豊穣などの利益があると信じられている。梛の宮の参道で2回、獅子舞が奉納され、神輿は拝殿前に着くと、驚いたことに、御輿は台座ごと階段を登り拝殿に入られる。
祭り前から入念に執り行なわれるミソギの神事や頭屋宅に設けられる社殿、御旅所での行事、神輿の宮入りなど行事は、熊野権現勧請の様子を再現したものであるのかもしれない。梛の宮の秋祭りは、総じて祭りの古俗がよくとどめている。-平成15年10月5日- |
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■ イブキの木が植わる若宮神社は、みそぎが行われる出水とごく近い距離にあり、梛の宮から至近の距離にある。「梛の宮」の秋祭りに先行して出水(若宮神社)の祭りが行なわれていた可能性を示唆しており、後に熊野権現の勧請によって祭りが梛の宮に統合された経緯があるのではないだろうか。
讃岐の社は高松の田村神社然り、出水との関係を示唆する神社が少なくない。開田による稲の栽培に水源の確保は不可欠である。出水はまさに農民に豊穣を約束する神水だった。その聖域に神社が建てられても不思議はない。若宮神社との係わりを考えると、梛の宮の秋祭りは多分に出水への感謝祭的な意味合いが色濃く漂っているように思う。 |
出水のこと |
善通寺の我拝師山と大麻山の間を流れる広田川流域一帯は、大麻山に築かれた野田院古墳(前方後円墳)等から推定して墳墓を造営するに足りる生産力豊かな地域であったのだろう。
讃岐には出水が随分多い。現在なお善通寺市域だけでも中村(木熊野神社)、布施など27箇所も活きた出水がある。とうとうと涌き出る泉は旱魃、洪水のリスクが少なく、灌漑は比較的容易。出水利水は、河川利水に先行して行われた可能性もあるのではなかろうか。稲作が平野に進出する経過を考える上で、出水利水は大変重要な意味が隠されているように思う。つまり、河川利水による平野の稲作には、河川に堤防や井関を築き、田地を平準化し、水路を敷設し導水する確立した技術を要するが、地形が複雑な日本において、これらの技術が種籾や稲作の伝来とほぼ同時に獲得し得たとは到底考えられない。板付や雷山(標高955b)の北山麓に展開する前原(伊都国)など早くから稲作が行われた北部九州地域においても、大河のほとりで稲作がスタートしたわけではない。幾筋かの小河川が流れる緩やかな傾斜のある平野で稲作は行われている。加えて、その稲作技術は瞬く間に日本全土に普及したのではなく、時間をかけ伝播し、地域地域で工夫を重ねながら定着していったのであろう。
讃岐においては、出水利水とりわけ善通寺地方を想定するのであるが、稲作が始まると出水利水によって徐々に灌漑技術が磨かれ、非灌漑期の余剰水はため池に蓄積することにより米の栽培面積は飛躍的に拡大し、やがてその技術は治水技術とあいまって大中の河川の流域で稲作を可能にするほどに高度化していっただろう。さらに稲の栽培技術や治水技術は、水利を専門とする集団をうみ瀬戸内海沿岸の拠点拠点に留まりながら、畿内や中国、山陰地方など四方のクニグニに伝えられることもあったかもしれない。東讃岐の水主神社などの存在は、そのような水利技術者集団の存在を示唆してはいないだろうか。
豊富な出水が所在し瀬戸内海に面する善通寺地方は、奇しくも稲の栽培技術や水利技術の実験圃場足り得る絶好の地理的、地質的な好条件を備えている。内場ダムほどの貯水量を誇る満濃池を7世紀に築き得た不思議は、善通寺の出水利水によって磨かれ発展した水利技術や治水技術の存在を裏付けるものだろう。
灌漑技術が磨かれ河川利水による稲作が一般化するようになっても讃岐は少雨地帯。弥生時代には灌漑期に日照りが続くと大麻山で或いは我拝師山や住居近くの出水などの水源地で銅鐸を打ち鳴らし雨乞いの祭祀が行われることもあったであろう。 |
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