|
杭全神社の夏祭り |
|
大阪の夏祭りは6月末日に大祓いが終わると、堰が切れたように氏地でいっせいにはじまる。
大阪市内の神社は200余社。毎日、どこかで夏祭りが行われている。隣り合わせの氏地で祭りが重なることも珍しくない。
平野区に杭全(くまた)神社という社がある。倭名類聚集に杭全郷とあり、杭全は平野郷の古名。古代、坂上田村麻呂の子広野麻呂によって開発が進められたところだ。平野郷は中世のころになると杭全荘となり、坂上田村麻呂の子孫平野殿が支配した。上級領主は藤原氏であり、後に宇治の平等院が領した。
郷内の社の中では三十歩神社(赤留比売命神社)が一番古く、延喜式内社である。杭全神社は、平安時代の始めに平野郷に奉祀されたと伝えられ、祭神は坂上氏の氏神スサノウノミコトである。平野はまた、近世、堺と並び自治都市として栄えたところだ。神社の境内にその特徴である環濠の遺址が残る。熊野詣が盛んになると、社は熊野権現或いは祇園宮とも称せ、旧街道沿いに名残の道標(写真下)が保存されている。平野は通りの家並みにも古きよき大阪の顔が見えるところである。
近世、平野郷は大阪の豪商末吉氏を生んだ。末吉氏は商業、運送業、金融業によって手広く商い、フィリピンやシャムにまで商船を送り、海外貿易などで巨万の富を築いた人物である。杭全神社や京都の清水寺に住吉船の絵馬を奉納し今日に伝わっている。とりわけ、末吉孫衛門は末吉氏中、最も大阪商人として名のきこえた人である。大阪夏の陣の後、荒廃した平野郷の街割りをして戦災復興をはかったのはこの人である。
杭全神社の夏祭りは、ダンジリと蒲団太鼓が知られていいる。都心を9基のダンジリが行き、蒲団太鼓がゆく風景は平野の夏祭りの象徴。例年、7月14日が杭全神社の本宮祭。ダンジリの宮入りが行なわれる日である。露天が並ぶ参道を1番から9番まで、順次、威勢よく行きつ戻りつして宮入がはじまる。なかなか壮観なものである。大阪近郊では、ダンジリが途絶えたところも少なくないが、平野市民は伝統を捨てなかった。その心意気がこのような盛大な平野の祭りを支えている。
蒲団太鼓や枕太鼓など特色のある山車が都心の氏地で守られている。村落で廃絶、都心で盛行という大阪のなんとも皮肉な祭り事情がある。蒲団太鼓は往時の綿花産業の分布図を示している。綿は商品作目として農家のよい収入になり、多くの製品製造業や流通業者が関与した。長崎から瀬戸内海に沿って東上し、播州、大阪、さらに淀川水系を北上し、山城の木津町や奈良にまで至っている。別途、堺から大和川を遡り、石川流域に波及する道もあった。瀬戸内沿岸の蒲団太鼓は概して暴れ太鼓であるが、大阪など近畿の蒲団太鼓は大人しく、荒っぽさは枕太鼓とダンジリが担っているようである。
平野郷は摂津、河内、泉州における綿業センターの役割をもった街だった。くり綿問屋、綿くり屋、綿打ち、木綿屋など綿産業で活況を呈した。末吉氏の発議によって平野川に柏原船(綿花等物資の輸送に柏原、平野間を行き来した船)を就航させ、平野郷は物資の集散地として発展したのである。明治20年には、末吉氏らによって平野紡績会社が設立されている。
杭全神社の夏祭りにつきもののおどりに龍おどりがある。平野郷だんじり囃子にあわせて踊る。今日では、三尺四方の舞台でソロで踊る場合が多いようである。龍のような特異な手の構えから、身をくねらせて、前後左右に或いは天を衝き、竜神のごと激しく踊る。長い伝統が完成度の高い舞踏を生み出している。神社の境内で、このようなすばらしい踊りがさりげなく演じられている。これも大阪のまつりの奥ぶかさであろう。龍おどりは天神祭りのだんじり講の者が踊っており、いくぶん地域的な広がりもあるようである。平野郷だんじり囃子は、住吉大社の夏祭りにも奉納されている。
暑い夏はまたハモ、タコ、アジの美味しい季節。大阪の夏まつりに欠かせない食材。例年、夏まつりの季節になると、一気に消費量が伸びるという。食もまた、大阪の夏まつりの文化である。−平成19年7月− |