若狭ノート
雲浜獅子(うんぴんじじ)−小浜市−
 越前岬から丹後半島の伊根を結ぶ若狭湾。その広大な湾にまた大小の枝湾がひらけ商船や漁船、遊覧船が行き交う。
小浜漁港
小浜・泉町商店街(海産物店)
 小浜はそのような湾にひらけた町。出船入船が航跡を描き、イカ釣り船が漁港を埋めている。泉町商店街は小浜市民の台所。京への鯖街道の起点となった町。問屋や小売りの魚屋が軒を連ねる。店先にワカサカレイ、エテカレイなどを串刺しにして荒縄に吊るした干物が旅情をそそる。
 5月3日、街を行くほどに小気味よい笛、太鼓の囃子が聞こえる。今日は小浜のお城祭二日目(本祭)。昨夜から降り続いた雨も止み、五月晴れ。今日は小浜神社で雲浜獅子の奉納が行われるようだ。
 小浜神社は市内を流れる二つの川(北川、南川)に挟まれた小浜城址跡の一角に建つヤシロ。祭神は酒井忠勝公。家康の娘を娶り、大老にまで出世した幕閣。市民の尊崇の念も強い。
 午前10時半ころ、小浜神社本殿脇の舞殿で豊栄(とよさか)舞が奉納された。ウラヤス舞の態である。8人(2組)が順次、奉納。群舞のイメージで清々しい。
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 午前11時、小浜神社の拝殿前で雲浜獅子が奉納された。雲浜獅子は寛永13(1636)年、酒井忠勝公が入部(武州川越から移封)の際、旧領地で行われていた獅子踊りを、舞い手ともども引き連れて当地(雲浜地区)へ移したと伝えられる。
 小浜神社境内で奉納された雲浜獅子は、大人と子供の2グループ。舞い手はそれぞれ3人。雌獅子を老獅子と若獅子が雌獅子を奪い合い、勝った若獅子が老獅子と和解するストーリー。
 舞い手の装束は着物にタッツケ、白足袋に草履履き。頭に獅子を被り、頭から鳥の羽根を腰下まで垂らし、前腹に白布で太鼓を固定。腰に竹の先端にシデを結んだ指物を2本腰に差す。
 囃子方の笛吹きは、その周りに赤布を垂らした三度笠を被り、着物を着て白足袋に下駄ばき。獅子追いは着物に半纏を羽織ってタッツケ姿、鳥追い笠の上から頬かむりする(写真上)。ストーリーにあわせて16段の歌を歌う。雲浜獅子の演者は、舞い手、笛吹き、獅子追い併せて総勢30名ほどになろう。
雲浜獅子(子供獅子の立姿)
 雲浜獅子のストーリーと歌の趣旨は関東・東北地方の鹿(獅子)踊りや愛媛県下の五ツ鹿踊りや七ツ鹿踊りのそれと非常に良く似ている。装束も基本的に近似しており、例えば伊予の五ツ鹿踊り或いは七ツ鹿踊りは鹿の頭。それに対し雲浜獅子は獅子頭。ササラは、鹿踊りが竹に色紙を加工したそれを背負うのに対し、雲浜獅子は竹にシデを結んだ指物に簡略化され腰に差す(写真右)、等々の違いがある。雲浜獅子で舞い手が背負う鳥の羽根は、ササラではなく獅子の背中と思われ、その着想の面白さが雲浜獅子を非常に美しいものにしている。
 この種の鹿(獅子)踊りはもともと田楽や散楽、念仏踊りなどの影響を受けつつ進化し、雌雄の鹿(獅子)の恋争いという庶民の日常に昇華させ娯楽性をたかめている。
 鹿(獅子)踊りの名称や装束に地域差があるが、基本は同じである。被り物は鹿、獅子、シャグマ等々、かつては相当、広範であったことだろう。この系統の踊りは、京都・今宮神社のやすらい祭の羯鼓や大鬼の装束が元になり目的に応じ、さまざまに分枝したものと推される。
 鹿(獅子)踊りのストーリーについても、元は藤原俊成が千載集で‘世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる’と歌っているように古来、日本民族が歌い継いできた鹿(獅子)の哀傷にストーリーをつけ、娯楽性を高めたのではないだろうか。
 舞の象徴である頭につき、雲浜獅子のように獅子頭を用いるのは古来、日本人が獅子の霊力を信じていたためであろう。獅子舞が子供の頭を咬む仕草もそうした霊力信仰の表れ。
 鹿(獅子)踊りがほとんど絶滅した今、西日本では愛媛県下と福井県の一部地域にしか残っていない。類例のない貴重な民族舞踊である。その保存につき私たちは無関心ではおられない。−平成25年5月−
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