京都
田歌の祇園神楽−南丹市美山町大字田歌−

京都府の北部に由良川という川(1級河川)がある。延長146キロメートル、日本海に注ぐ川である。源流部は北桑田(旧郡)の芦生(あしゅう)。原生林に覆われたところである。自然に恵まれたこの辺りの山間から流れだす美山川(由良川」)に沿い、少し降ると田歌(とうか)という戸数30戸ばかりの集落がひらけている。茅葺の里できこえる美山・北地区の上流に所在する集落である。
 7月14日、ぽっかり浮かんだ美山川の段丘にアカネが飛んでいる。田歌集落の南に老杉が茂る鎮守がある。社は美山川に迫る崖の上に鎮座し、社名は八坂神社。川を背にして1間社造りの本殿が建ち、宝前に舞殿がある。社伝は洞雲寺の光悦上人が寛永17(1640)年に勧請したとあるが勧請元、祭神ともに不詳。土地の人は本殿前に置いてある牛の陶器片を見て牛頭天王だという。八坂神社の総本社(京都市)の祭神は現在、素戔鳴尊(スサノウノミコト)ほか2柱。神仏分離前は牛頭天王だった。牛頭天王は外来神(インド)。その性格が素戔鳴尊と同一視され明治期に素戔鳴尊に習合されたとみられるから、田歌の八坂神社の場合、いずれの神社から勧請したにせよ祭神はもと牛頭天王とみるのが自然と思う。
 神社の崖下は淵になっていてアユがヒラをうち、その少し上手で釣りをする人の竿が忙しく曲がっている。


 今日は八坂神社の祭礼日。神社から百数十メートル離れた山麓に、祭の当家(トーヤ)宅がある。神楽屋台を座敷に据え、祭りの神具一式がまとめてある(写真)。過日、八坂神社で神事が行われ、当家宅に屋台などが運び置かれ、笛太鼓の慣らしも古来、当家宅でおこなわれてきたという。祭り当日、朝から当家の家の奥で女性たちがせわしなく動きまわり湯茶、食事の準備に余念がない。
 午前10時ころから土間を挟み、座敷の対面の部屋を役者の楽屋にあて、役者の化粧が始まる(写真)。奴役の三人がそれぞれ顔、体の前後、手足に白粉を塗り、墨で太い眉、髭を描き、毛脛を荒々しく描く。風呂場に移動して法被にふんどしをつけ、鬘をかぶってちょんまげ姿につくる。おかめは手に白粉を塗る。
 当家から神社まで道行の主だった役者はお面をかぶった鬼(やせ)2人、天狗、奴3人、ひょっとこ、おかめ、樽負い爺。道中、神主が同道し、神楽屋台を曳いて太鼓・笛の楽人が最後尾からはやす。役者はそれぞれ採り物を身に着け、出発の準備が整う。
 午後12時15分、行列が当家宅を出発し、八坂神社に向かう。練り込みの始まりだ。先頭は浴衣姿の鬼。長さ2メートル、直径10センチほどの竹の先から数十センチ、竹を細かく割り砕いた茶筅様のササラにつくり、これを小脇に抱え地面を引きずり、ガラガラと音たてながら進む(写真上、3枚目)。
 鬼の次は天狗。猿田彦の体であろう。次に神主、奴が続く。奴は件の風体に長い柄のついた槍を立ち持ち、脚絆に黒足袋、草履姿で大名行列の様子を再現する。誇張したパントマイム風の演技を要所で数回行う。「ヤートーセー、ヤートーナ」と唱える。この間、後続のひょっとこがササラを擦って囃す(写真上、4枚目)。この奴の行道芸がこの祭りの前半のハイライト。大名行列の槍振りの所作を3つくらいのストップモーションに分解し、歌舞伎よろしく「にらみ」、「見得」のきいた所作をつくる(写真下)。奴の表情におかしみがあって真に稀有である。
 神社前で鳥居がかりを終いにして石段を下り、境内で奴が面白おかしく口上を述べその後、本殿において神事が執り行われる。
 この祭りに使われる二様のササラのうち一つ(鬼の採り物)は大宮売神社の秋祭りにみるシンボシのそれと似ていること、また鳥居がかりが行われることなどを総合して田歌の行道芸が田楽系統の浮流であることがわかる。
 神事の後、舞台は神楽殿にうつる。この舞台が祭りのハイライトと言ってよく、笛太鼓の共演に観客が飽くことはない。
 屋台に仕組まれた太鼓或いは笛を吹く芸能は府下一円で行われる祇園太鼓などと異なるところはない。しかし、役者が対になり或いは三人がかりで一つのストーリーをともなって太鼓が叩きわけられところに、この芸が単なる笛太鼓でない神楽たる所以がある。観客は狭い舞台にくぎづけとなって、おかめの色気、奴の勢い、樽負い爺の弱く微かな息遣いなどに喝さいするのである。伝統芸能を見直し、反デジタルの面白さがこの祭りにはある。
 「田歌の祇園神楽」の由来について、旧村名の田歌の発音が「とうか」であるところから、祇園神楽は踏歌に由来するという説がある。それは神楽の終いに演じられる役者3人(ひょっとこ、お多福、樽負い爺)による三の舞(三番叟)に大地を踏みしめるような動作があり踏歌(足で地を踏むような拍子をとって歌う集団舞踏)の芸系説の裏付けとなっているように思う。かつ田歌の名称が江戸期に生じた村名であり、八坂神社勧請の時期とも重なって踏歌説には現実味がある。しかし踏歌が正月行事として持統朝に中国から伝わり禁中で奏されていたことを考えると祇園神楽を直に踏歌の淵源と解し難く、僕はむしろ陰陽道の反閇(へいばん)に求めるべきであると思う。それは踏歌と同じ信仰から生じたものらしく仕草が似ていて中世以降、田楽や能でもこれを様式化して能の「翁」等に取り入れられ天下泰平、家運隆盛のいわばまじないとして命脈を保ってきたから、祇園神楽の由来は直にはここに求められるべきであり踏歌とは別系統の田楽の芸系と解すべきである。「とうか」の語源は「たうた(田歌)」と考えるべきでこの面からも踏歌説は採りがたい。田歌の意味につき再考が必要と思われる所以である。
 さて、一連の行道芸を含む「田歌の祇園さん」の祭りの意味するところにつき僕は、光悦上人が八坂神社勧請の際に執り行われた神事の有様を映したものではないかと思う。御霊を当家に移し神楽屋台を同家に留め置き、そこから神社に向かう行道の形式はまさにその有様をなぞっているようにも思われるのである。その際の奴の化粧やパントマイム、ササラの導入等々、祭りの行列の組み方などにつき近在諸方面の祭りの形態が伝習されたことは想像に難くない。
 この祭りには汲めど尽きない魅力が溢れている。発掘されて30年にも満たない祭りに北桑田の民俗の奥行きの深さが感じられる。−平成26年7月−