拍子木の澄んだ音色に導かれ、高張り提灯を先頭に、まつりの行列が続き、布団太鼓がゆく。 木津祭の本宮の日、午前中、氏地を巡行した布団太鼓は午後、岡田国神社に向かう。布団太鼓は2基。神社境内で大練りが始まる。太鼓台を上下させ、にない棒がしなるその反動によって太鼓台が激しく揺れる。四方に垂れ下った7色の布は中で太鼓を打つ子供の背中に着けた色ちりめんのしごき。長く垂れ下がり、台飾りを兼ねている。
延々と続く大練り。秋晴れの木津の空に氏子の歓声が絶えることはない。
社は延喜式内社。木津郷5箇村の氏神である。一段と高くなった本殿・拝殿の下は、大練りが行われる境内。境内の南北に氏子詰所が配置されている。板桟敷になっていて、この地方特有の造りである。神社の境内には大体、板桟敷のこしらえがある。当神社の北側詰所に17座と表示してある。氏地における宮座の数をあらわしたものであろう。氏地の神社に宮司や禰宜といった祭祀の専従者ができるのは比較的新しい時代になってからである。その昔には、氏子が宮座を組織して、回り持ち或いはその他の方法によって当年の祭の司祭を決め、祭は挙行されたのである。選ばれた司祭は、頭人或いは当屋(トーヤ又はドーヤ)などと呼ばれる。近畿地方においては特に宮座の発達が著しく、形態も様々である。座数は一つとは限らず祭に奉仕する職掌或いは氏地の地域割り、氏子の新旧などによっていくつもの宮座が存在する。木津祭には17座が存在したのだろう。座数の多さは注目すべきものだ。神社に結集した氏地の勢力をものがたる。木津は水運の要地として、古代から栄えたところ。中世には材木座や問丸ができたところ。井関川に沿い発達した本町通りにはさまざまな商家が軒を連ねていた。境内の17座の板桟敷ははそうした座衆の席。布団太鼓は各座の年配者が列座する中を三周するならわしである。1回目はゆっくり回り、2回目はサセーといって高く差上げ、3回目はヨイヤサーという太鼓打ちの掛け声とともに太鼓台は大暴れするのである。
木津祭の布団太鼓はことさら豪華である。地元では布団太鼓、太鼓台或いはチョーサなどとは言わず、単にみこしと呼んでいる。みこしは赤いビロードを張った三枚重ねで、金糸の刺繍が施されている。布団は上ほど形が大きく、白の裂がかけてある。まったく目を見張る豪華さがある。布団の下は二重垂木で、四方の屋根に紅提灯を吊るす。庇の下に額を掲げ、四中柱の間に幕を張る。額も立派なものだ。太鼓台に乗る子供は鉢巻姿に襷して、背中に7色のちりめんのしごきを結わえ長く垂らす。幕間から布がでていて太鼓台の躍動に合わせてひらひらと靡いて美しいものである。
瀬戸内、四国沿岸の太鼓台のあり様とあい通づるものがある(香川県の牟礼の白羽神社のチョーサの例、小豆島の亀山八幡社のチョーサの例参照)。
木津の太鼓台はすでに18世紀初頭には存在していた様であり、その数も明治初年ころには10基にも及んだ。次第に舁(か)き手を欠くようになりみこし組合からの脱退や町内会の合併等により現在では2基。昭和61年に4丁目の布団太鼓台が京都府立山城郷土館(木津川市山城町上狛千両岩)に寄付され、館内に展示されているのでご覧になるとよい。
近畿地方の布団太鼓は攝津、河内、泉州に広く分布し菅原神社、開口神社、方違神社など堺の蒲団太鼓がよく知られている。木津祭は例年、10月の第3土日に行われる。−平成19年10月− |