ベッチャー祭り−尾道市−
 早朝、尾道水道を眼下に望む東土堂町の高台から小倉祇園太鼓のジャンバラのような軽快なリズムを奏でる鉦、太鼓の音が尾道の町にベッチャー祭りの始まりを告げている。
 毎年、11月3日は一宮神社(吉備津彦神社)の秋の例大祭。子供たちには待望のベッチャー祭りの始まりだ。 午前8時過ぎ、一宮神社から参道を下る三鬼神、ショーキ、ベタ、ソバにシシが姿を現すと、‘ベッサ、ベッサ’‘ショッキ、ショッキ’と鋭く、気迫のある囃子声が聞こえる。ショーキはササラ。ベタ、ソバは祝い棒を持ち、参道下から踏切を越えセンター街にくりだす。
 センター街では神輿の練り込みがはじまっている。弓張提灯を片手にした女性たちが神輿をはやしたてる。ショーキ、ベタ、ソバは飛び跳ねるような軽いフットワークでササラ、あるいは祝い棒を振り上げ子供の頭を叩き、突く。シシは大きな口で頭をかむ。この日ばかりは泣きわめく子供の涙が乾くことはない。こうして港尾道の親たちは子供の無病息災を願うのである。尾道市街を巡行し祭は夕刻まで続く。

 一宮社伝は、ベッチャー祭の由来について、文化4(1807)年、尾道に悪疫が流行した際、奉行の南部藤左衛門が各神社に病魔退散のお祓いをさせ、このとき神輿を先頭にシシ、ショーキ、ベタ、ソバが異様な装束で行事を行なった、と伝えている。

  江戸時代における疫病の伝染はしばしば猛威をふるい、飢饉と重なって多くの死者をだした。特に子供がホウソウで死亡することが多く、藩政期を通じ人口が増加しなかった一因とみる者もいる。文化年間にはホウソウが流行した。文化3(1806)年に始まり文政2(1819)年まで西日本を中心に猛威を振るった。上方から肥前五島にまで伝染し、多くの子供の命を奪ったのである。尾道は内海の要衝にあり、免疫のない子供は、10年サイクルで発生したホウソウの脅威にさらされていたのである。種痘法の技術がシーボルトによってわが国にもたらされとホウソウによる死者は激減する−平成18年11月3日−