東大寺二月堂のお水取りがすむと関西に春が来る。3月12日、厳寒の夜、荒行を11人の連行衆に託し、庶民はひたすら初夜に鳴る梵鐘を待つ。鐘を合図に本堂から使者が発ち、やがて堂童子が11本の籠松明をかついで堂に登る。廻廊で松明を大きく振り回す。火の粉が飛び散り、人々は懸崖の元で争って火の粉を浴び、厄除けとなす。
籠松明は近畿一円の信者から奉納される。根節のついた長さ7メーを超える竹の先に、径1メートル20センチ余の球形の仕掛けが付され、重量は数十キロにもなる。
日が変わり後夜(ごや)の勤行の半ば、午前2時過ぎに咒師以下連行衆が本堂から出て、石段を降り堂下の閼伽井屋(あかいや)の入口に立ち列ぶ。法螺貝(ほらがい)が吹き鳴らされ、やがて香水が汲みとられる。寒天を破る法螺の音が再び吹き鳴らされ、諸衆は本堂に還り香水を仏前に供える。
この「お水取り」の行事が二月堂の修二会(しゅにえ)の代名詞になっている。この日の境内は特別に参拝者が多く立錐の余地もない。閼伽井の水は若狭国小浜の音無川の上流、白石神社より送られるという伝えが奈良と小浜双方にある。いつの時代かにその淵源が忘れ去られ、水取りの神秘は一層深まり、芭蕉も一茶も「お水取り」に杖を曳いた。
お水取りと総称される二月堂の修二会は、修二月会ともいわれる。旧暦2月に行われる法会というほどの意味合いで、各地の寺一般の行事と同義である。しかし、二月堂のそれは天平勝宝4(752)年、二月堂の開祖実忠和尚が弥勒菩薩の浄土である都率四十院の常念観音院に準じて建立し、摂津の難波津から十一面観音像を勧請し、十一面観音悔過(けか)の行法を行なって以来、一度の中断もなく二月堂に伝承され、古儀を失なわず行なわれてきた。その行法は顕密併用。弘法以前にわが国に入ったとみられる密教事相を発露する。仏教の東漸に伴い修得されたとみられる五体投地や達陀の行法などユーラシアの文化の断片を行法に爆発させる。仏教が東シナ海或いは対馬海峡を越え日本に上陸するとそれに神道の要素をも加味し行法の体系が構築された。二月堂の修二会はまったく特異な宗教行事として東大寺の一角に根づいたのだ。
3月12、13、14日の後夜の後に修される達陀の行法は、中央アジアのタタール国の行事によったと説く者もいる。鈴、法螺、錫杖などと調子を合わせ松明の大火を焚き、内外陣に火の海地獄を現出する行法はまさにタタールの宗教行事にヒントを得たものかもしれない。仏教が伝来し、わずか200年にして仏教文化は極点に達し、諸国の宗教家が来朝し、膨大な文化情報が奈良の地に伝えられた。お水取りは連綿と続く信仰の証であるとともに、正倉院御物に匹敵する極東に吹き寄せられた文化の集積を示している。お水とり(修二会)は人類の貴重な文化遺産である。−平成21年3月− |