大和猿楽 |
現在の能楽を作り上げたのは大和猿楽である。能楽家の所伝に、「猿楽は猿女の祖(天鈿女命)が天岩戸の前で演じた神楽がその起源である。聖徳太子が天下安全のため、諸人快楽のためその中の66章を金春の始祖秦河勝に賜うた。このとき神楽の神の楽をとり、申楽と名づけた・・・伝々」とある。世阿弥元清も風姿花伝において同旨の所論を述べ、神楽の神の字の片(ネ)を省き申楽と名づけられたと述べている。荒唐無稽の感なしとしないが、猿女(天鈿女命)は朝廷や伊勢大神宮に仕え新嘗会等神事の後に余興として法楽の舞(さるごう芸)を演じ、後年には踏歌、相撲節会などの際にも、さるごう芸演じていたことが三代実録などの記述からわかる。
大和猿楽は猿女の直系から生じたものでないが、猿女のさるごう芸は漸次広まり、後年、大和猿楽や田楽が生じ、それらの芸は地方の神社や寺でも神事、仏事の後に演じられるようになる。
大和猿楽の起源は鎌倉時代中ごろとみるのが一般的である。猿楽はもと滑稽な物真似を本芸(後の狂言)としていたが、次第に能芸(後の能)に向かう。梁塵秘抄(男山八幡通夜の条)に、猿楽につき、今様の会に出演した記述が見え、このころすでに今様のような歌を歌いつつ舞うところの能芸に向かったものとみられる。しかしその芸は、基本的に本芸、能芸ともに田楽と同質という宿命がついてまわった。つまり、田楽は田舎猿楽の略語ともいわれ、近衛府で教習された猿楽が真似られ田舎の神事等の余興として演じられる状況の下、両者の違いを見出せなくなったのである。今日、当時の田楽や猿楽の曲を実聞することはできないが、多分京都の今宮神社のやすらい唱歌のような折れ線式の謡ぶりだったのではなかろうか。
大和猿楽は室町期に入ると、観阿弥世阿弥父子及び世阿弥の娘婿金春禅竹(円満井座の太夫金春弥三郎の子)の出現によって、詞に平家琵琶や宗教音楽の声明の曲節を加え、その動作に散楽や田楽、曲舞などを融合し演劇化して次第に猿楽から脱化して、今日の能楽の骨子を練り上げていく。
大和は能楽の宗家をなす金春流、観世流、宝生流、金剛流の4座の発祥地である。諸流中、金春流の芸系が最も古く大和猿楽の嫡流。上述の秦河勝を第3代とし、禅竹を第60代に数え、現宗家金春安明が第80代に当たる。観世流は観阿弥清次を初代とし、世阿弥元清を2代、音阿弥を3代とし、現宗家観世清和が第26代に当たる。将軍徳川秀忠の時代に金剛座から喜多座が分枝して5座をなし、今日に及んでいる。なお、もと丹波猿楽から出た梅若流は江戸時代に観世のツレ家となり、一時期独立していたが今は観世に戻っている。
金春、観世、宝生、金剛の4座は昔、大和の興福寺や法隆寺などの寺院に属した猿楽座の流れであり、寺社の祭礼に際して法楽或いは慰安の猿楽を演じた。猿楽座の座の呼称は商工業者などの座が寺院に属し独占的な経済活動を行なった中世のそれと同じである。
猿楽座ははじめ猿女のさるごう芸の流れをくみ丹波、河内、摂津、近江、伊勢など畿内やその周辺部で生成され、住吉神社や賀茂社、日吉神社、皇大神宮などに謹仕したが、次第に大和の猿楽座に吸収されていく。大和は古い法灯を継ぐ大寺院が所在し、伝統的な雰囲気が漂う昔ながらの行事が温存されていた。新興の武門勢力であった足利将軍家は南都の寺社の行事をやたら保護、奨励し、後の能楽の発展を支えた。特に、足利義満は藤若兒(世阿弥の幼名)を愛し、猿楽は幕府の式楽の地位を確保し、また金春禅竹は先の大乱(応仁の乱1467〜1477年)を
避け薪の酬恩庵(京田辺市。写真左)にいた一休禅師と親交を結び、自ら謡曲文や「六輪一露之記」などの芸術論を書き、酬恩庵門前付近の芝で猿楽能を演じたと伝えられる。酬恩庵近くの薪神社境内に能楽発祥之碑(写真下)が立っている。一休禅師はまた江口、山姥などの謡曲文を書いたと伝えられるなど猿楽は知識階級の支持も得て躍進を遂げる。
大和4座の猿楽座は形式的には興福寺に属し春日神社の神事に奉仕する伝統があった。これら社寺に対し足利将軍家や諸大名が援助を行うようになり、猿楽座は大いに発展し維持された。もっとも大和の結崎座から観阿弥清次とその子世阿弥元清という稀代の天才が出現し、京に上り能楽を大成させたことがその発展を後押ししたことはいうまでもない。
八幡、養老、箱崎、百万、さねもり、よりまさなど世阿弥の名曲は数えればきりがない。しかしこれらの曲は、世阿弥の遺集16部集が世に知られるようになるまで、著名な文学者までもが謡曲文は僧侶の作と公言する有様だった。無学の能楽者に謡曲文など書けるはずがないという妄信が偏見を生んだ。謡曲の多くは長い年月をかけスクリーンにかけられ、研ぎ澄まされ今日に至っているが、その多くは世阿弥や金春禅竹、観世十郎などの能役者によって執筆されたのである。当時の能役者には学識はもとより、世の中を奥深く見つめる観察眼や霊等の存在が人の行動に与える心理描写を謡曲文で表現する才能が備わっていたのである。
私たち日本人は、世阿弥がシェイクスピアの生誕より200年も前にさねもりなど謡曲文を執筆した才能を誇りとしなければならない。まして舞いも一流であるから、天才をほしいままにした世阿弥だった。
能楽は武士の好尚に適い、先の大乱後、徳川家康によって統一される日本の暗い時代にも能は途絶することはなかった。織田信長は幸若舞を舞い、能を観賞する浮流心を持ち合わせていたし、その家臣豊臣秀吉に至っては、太閤記によると呉松越後という能太夫から能を習い禁裏で演じている。天正15(1587)年正月、足利時代以降、久しく中断していた謡初の式を再興したのも秀吉だった。‘2日の晩には御謡初として四座の太夫ども召よせられ、御かわらけなどめぐりけり。・・・伝々」(太閤記)’とある。文禄2(1593)年には御所紫宸殿で3日間にわたって大能楽を催し、自ら弓八幡、皇帝、三輪など15曲を舞い、当時最も隆盛を誇った金春太夫は式三番翁の1曲のみ。徳川家康、前田利家、蒲生氏郷、京極高和など武将も舞台に立っているがせいぜい1、2曲であるから、秀吉の熱中振りが知れよう。
江戸時代の歴代将軍も能楽者を大いに優遇し家臣団に加えた。家宣の時代に老中に昇任した間部詮房は能楽者であった。
能楽の詞を謡曲と言い、今日に至っても約300編が残る。
蛇足として、主演の太夫をシテ(仕手)、シテの助役をシテツレ(仕手連れ)と言い、シテの対者をワキ(脇)、ワキの助役をワキツレ(脇連れ)と言う。能の舞台はもと神社の神楽殿から進化したもので、妻を正面とし階段を設け、正面の鏡板に松を描く。楽屋から舞台への通路はもとはその背後に設けられたが、後に斜め横になり橋掛かりと呼ばれる。演劇としての能楽の要素が大いに発揮されるようになった。 |
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能舞台 |
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大和猿楽は、金春流が円満井(えんまい。現奈良県磯城郡田原本町)に、宝生流が外山(とび。現桜井市)に、観世流が結崎(ゆうざき。現磯城郡川西町)、金剛流が坂戸(さかど。現生駒郡斑鳩町)を発祥地としている。坂戸の座はもともと法隆寺に属したが後に興福寺に吸収されていく様に、大和の処々に生じた猿楽座は次第にその四座に吸収されつつ興福寺の勢力下に統合されていく。4座中、観世・結崎の座が指導的立場にあったといわれる。磯城郡川西町の結崎に所在し、一族の宝生・外山の座とともに伊賀から大和へ出て発展した座である。大和に未練がなかったのか京都に出て足利将軍家に接近し、観阿弥、世阿弥がでて幕府直属の芸能者として行動するようになる。結崎の寺川の辺に「観世発祥之地」の顕彰碑(写真上)や伝説の「面塚」の碑が建っている。
大和生え抜きの金春・円満井の座と金剛・坂戸の座は、初期猿楽(咒師(しゅし)猿楽)をもって金春は興福寺に、金剛は法隆寺に勤仕してきた関係から容易に大和を捨てがたかったようである。はじめ4座で奉仕した興福寺修二会の薪ノ能は観世・宝生が抜け、やがて金剛が抜け、金春1座で勤仕する時期が永く続いた。
もう一つの猿楽座の重大な勤仕とされる興福寺の所管に属した春日若宮祭における祭礼能がある。修二会の薪ノ能と同種の能が奉納される。こちらの能も金春座の勤仕による。野外で演じられる能を見るよい機会であるが野外だけに天気次第のところがあり、降雨の際は特設舞台で演じられる。−平成20年12月− |
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大和猿楽(春日若宮祭。特設舞台) |
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能の流派と芸系のこと |
流派と流儀
今日の能楽の流派は、大和猿楽から発祥した観世、金春、宝生、金剛の各派と江戸時代に金剛から派生した喜多流の5流派である。これに梅若流を加えて現在、6流派が存在する。しかし梅若が観世のシテ筋として演能してきたため能楽は5流派といわれる。戦前、梅若派が観世とのもつれから独立されたことはさきに記したとおりである。もつれのいきさつは知る由もないが梅若は5流派とは異なる丹波猿楽を発祥とする芸系であった。今は観世に戻られているが、梅若独自の演能活動もされているようであり、一般には能楽6流派という方が通りはいい。
能楽に門外漢の私たちは流派というが、能楽仲間筋では流派と言わず広く「流儀」という言葉を使っておられるようである。そうすると梅若が観世で舞うおりには観世の流儀の内にあってこそ一流をなしているわけでそういう意味からして能楽は5流儀といっていいのかもしれない。しかし、各派の謡の文句や筋扱いに多少の違いはあっても主張や演能方法が異なるわけでないので流儀と流派を使い分けて5流儀、6流派があるといって言ってよいのではないかと思う。 |