京都
丹波猿楽(梅若猿楽)−綾部市大島町−
福田神社
梅の森神社
 綾部市の西郊に大島という町がある。甲ヶ嶽の麓に開けたところで綾部から福知山に通じる幹道・府道8号線沿いの町。
 町の鎮守福田神社(写真)は延喜(901〜923)年間創建の古社と伝わる。この社の境内小社に梅の森神社(写真)がある。もともと福田神社のお旅所付近にあって明治3(1870)年に当地に遷座した神社。祭神は猿田彦命。丹波猿楽の梅若家の氏神で、承平(931〜937)年間に、同家が何鹿郡志麻荘(綾部市の大島、安場、延域内)を領有した際、故地京都太秦の梅宮神社から勧請した社とされる。梅若一族がいつのころからか大島からいなくなり、福田神社の境内に遷し祀られるようになったものであろうか。
 梅若家はもともと京都太秦の梅津にあって橘諸兄(たちばなのもろえ)十世の孫兵庫守友時(仁和4(888)年没)を先祖とする家系と伝えている。丹波猿楽の主家のひとつ。
 平安時代に丹波猿楽が盛んな世木・宇津(京都府日吉町)に移住。承平4(934)年に何鹿郡大志麻荘(おおしまそう。志麻荘とも。京都府綾部市)を領有し、直系の畑六郎は丹波船井郡殿田の郡司代官に任じられている。同殿田の曹源寺に友時・景久以下梅若家19人の位牌を安置する。
 室町時代になると猿楽は将軍家や貴族に保護され、諸所で大社寺について座をなし大いに発展する。梅若家は応永年間(1394〜1428)には丹波猿楽の名声を得ていたようで丹波の日吉猿楽と共に後小松院の庇護に浴し、応永26(1419)年、仙洞御所で猿楽を演じ禄物3000疋が梅若大夫に下された記録(「看聞御記」)がある。このころから梅若(旧名は梅津)を名乗るようになったようである。
 しかし、絶頂期あった梅若猿楽も後小松院が崩御すると大和猿楽の勢力に押され、次第に中央の舞台から遠ざかったようである。安土桃山時代になるとまた息を吹き返し、梅若猿楽は信長や家康の庇護を受け、世木荘(京都府日吉町)に知行を得て演能に応じていた記録が多門院日記や宇野主人記などにみえる。
 能楽大成以来、幕府に特別の保護を受けた猿(申)楽座は江戸時代初期に大和猿楽の四座(金春、観世、宝生、金剛)が幕府に座号の使用を許され俸禄を得た。金剛から分かれた喜多は一流を認められたが座号は許されなかった。仙洞御所や法勝寺などに勤仕した梅若猿楽など丹波猿楽は信長や家康が亡くなると、なぜか江戸幕府には重用されなかった。そのような時代の流れを感じてか梅若氏は、江戸時代には観世のツレ家に転じたのである。大正10年に独立して一流を成したが結局、また観世に戻られたようである。
 丹波においては江戸時代に入っても梅若宗家はもとより縁者(分家?)が何鹿郡内にとどまり延喜式内社など古社に勤仕していたようである。梅原三郎氏(郷土史家。故人)が収集された資料によると、高槻と物部(いずれも綾部市)に梅若猿楽の楽人が住まいしていたという。物部梅若は阿須々伎(あすすき)神社や須訪岐部(すわきべ)神社に勤仕していたようであり、阿須々伎神社に梅若縁のものとみられる翁面(南北朝)が伝わっている。このほか尉面などもいくつか伝わり、物部から梅若がいなくなった後も坊口(阿須々伎神社氏地)の村人が古面を引き継ぎ例祭に能、狂言を奉納(今は断絶)していたようである。高槻の梅若は赤国神社、篠神社などで神事能を奉納していたが寛文(1661〜1673)ころにはいなくなり、地元には江戸に移住したという伝承がある。

 丹波猿楽の梅若氏の本拠について、「日吉町誌」は梅津友時以来ずっと殿田に住んでいて、武家であるとしている。しかし、平安時代に梅若氏が世木・宇津に移住したという確証はなく、多分、殿田の曹源寺に友時・景久以下19名の位牌が安置されていることを根拠にしているものと見られる。梅若氏の何鹿郡志麻荘移住は既述のとおり承平年間(931〜937)に求められ、氏神の梅の森神社が現存する。殿田に知行を得たのはこれよりづっと後であり、志麻荘に猿楽をもって勤仕すべく福田神社が所在することなどを考えると、梅若宗家の本拠は志麻荘(今の大島町)とみるのが自然であろう。能楽源流考(昭和13年刊。能勢朝次著)によれば、土御門院のころ梅若大夫波多景久が梅若の姓を賜り、元祖友時より景久に至るまで代々、丹波国綾部領大志満に住す、とある。なぜ友時と景久以下19名の位牌が殿田の曹源寺にあるのかはなはだ不可解である。梅若中興の祖ともいうべき景久の孫家久のとき信長から世木に500石の知行を得ており、或いはこのとき菩提寺を殿田に定めたことは十分に考えうる。
 さて、梅若家の故地は太秦の梅津。この家系に六郎(船井郡司代官)を名乗る者がおり、また能楽源流考によれば景久は梅若大夫波多景久を名乗っている。畑、波多は古代漢部(江戸時代から綾部の字を用いている)に住まいした秦氏の替字とみられる。大和猿楽の金春宗家は同家の始祖は秦河勝と伝えている。にわかに信じがたいが猿楽が大陸伝来の散学などの影響を受け成立した芸系の証として、梅若においても秦の字に拘ったのかもしれない。
 梅若氏が勤仕した福田神社は何鹿郡の延喜式内社‘福太神社’ではないだろうか。上八田(綾部市)の福田神社を式内社に当てる者がいるが、同じ式内社の島萬神社と近接(1.7キロ)しすぎているきらいがある。由良川左岸域の田畑などの生産基盤から見てまったく式内社が存在しないのはいかにも不思議に思われる。大島の福田神社の社伝(創建は延喜年間)へのこだわりから生じた説と推されるが、再考の余地がある。−平成25年1月−