国栖奏−吉野郡吉野町南国栖− |
白檮の生に 横臼を作り 横臼に 醸みし大御酒 うまらに 聞しもち食せ まろが父
<古事記。吉野の国栖の歌> |
吉野川の上流部に国栖というところがある。吉野の幽境にひらけたささやかなまちである。熊野・伊勢に通づる立地の宿命からか、国栖は記紀にしばしばその名が登場する古いむらである。
すなわち、古事記は神武天皇が熊野から大和に入るとき、国栖の祖先である国つ神・石押分之子が天皇を迎えたとしるす。また古事記と日本書紀は応神天皇が吉野宮に行幸のおり、国栖人が醴酒(こさけ)などを捧げて歌舞を奏したとしるし、そのときにうたった歌が標記の歌である。これらの記紀にあらわれた国栖の伝説は、吉野地方に住んでいた先住民を支配し、勤仕させた情況をうつしたものだろう。類似の伝説はヤマト王権が覇権を伸張させる過程で記紀にいくつもみえる。
近江朝のころ、難をのがれ吉野宮に入り、壬申の乱を制した大海人皇子(天武天皇)と国栖人との交わりは国栖の地の利のよさから一層深まったようであり、以来国栖人は国栖の奏をもって天皇に勤仕するようになった。元日節会や大嘗会などに参賀し、御贄を献じ、承明門外で国栖人12人、笛工5人が国栖の奏を奉り、歌を1曲歌い終えるごとに口を打って仰向いて笑うのが宮内省式であった。この奏は久米舞や隼人舞などの曲と同じ風俗歌舞に属するものである。口を打って云々の式は、古事記にしるされた標記の歌の説明に「撃口鼓為伎而曰」とあり、この態をうつしたものであろう。口鼓がどのようなものであり、その音すら想像もできないが、国栖人は口鼓を打ちながら醴酒造りを行なったのである。平安時代末期に国栖の奏が兵乱によって途絶えると、来栖人は南国栖の吉野川の和田巖の懸崖に、天武天皇を祭祀する浄見原神社を建て、毎年旧正月14日に翁の国栖舞を奉納するようになったという。
祭りにおける国栖奏は、神官の先導によって12人が吉野川の崖ぶちを行き(写真)、舞殿で祭礼諸事が挙行される。翁の舞や古歌4曲が奏せられる。4曲目の歌は古事記にしるされた歌謡と歌詞はまったく同じである。典雅な趣がある。神饌に毛瀰(もみ)、土毛(つちもの)、腹赤魚(うぐい)、醴酒(こさけ)、山菓(くり)の5品が供えられる。毛瀰はアカガエル。冬眠前に捕獲し、飼養されたものが神饌とされる。まったく古色をとどめる稀有な祭である。
国栖の奏は、近年では平成2年の皇位継承式、大嘗祭において楽師によって奏されている。−平成21年2月− |
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