京都

天空の大祭(紫宸殿楽-ビンザサラ踊り)−福知山市上野条

三岳山(839メートル)の東麓に御勝神社という社がある。一風,変わった名の社は傾斜のきつい山腹の田園にあり、25年ごとに行われる御勝大祭で紫宸殿楽という神事芸能が奉納される。紫宸殿楽は木片数十枚をつづり合わせた楽器を打ち鳴らし踊る。その形態は古式の田楽でビンザサラ踊りとも呼ばれる。
 平成27年10月12日、さわやかに晴れた天空の田園に吹く風が心地よい。今日は御勝大祭。眼下に急坂を辿って御勝神社に向う近村の神輿が数基みえる。神輿は次々に宮入り(渡御し)祭は始まる。
 住民の生活様式が変わりビンザサラ踊りはもはや継続困難、今回限りの見納めと憶測する向きもあって、狭い境内は見物客でごったがえしている。立錐の余地もなく息苦しい。観客は固唾を呑みビンザサラ踊りの始まりを待つ。
 本来、踊りは境内の庭で行われるもののようであるが何せこの状況では実施困難、舞殿で行われた。踊りは、踊り方12人、太鼓方2人、笛方2人、前立(先達)2人、総勢18人で奉納された。衣装はみな麻袴(曲目によって袴を着脱)を着て、頭に鳥甲(とりかぶと)、白足袋姿。先達は、1人は麻呂子親王の遺品という甲冑を着け、もう1人は木太刀を佩き頭巾姿。踊りは12人が2列に並び、笛太鼓に合わせてビンザサラを鳴らして行われるが、手振り、足づかいはゆったりとしていて単調である。踊りに田楽特有の高足、刀玉のような曲芸まがいの曲目はないが、トビ跳ねる曲目が伝存する。散楽の影響を受けたものだろう。
京都府下ではこのような古式の田楽はほとんど廃絶した。四半世紀後、氏子に限らず私たちが死に変わり生まれ変わりしてもまた御勝大祭が斎行され、この庭でビンザサラ踊りが行われることに期待を寄せたい。天空の里のよい祭だった。


田楽は豊年予祝の目的で田植え時期に行われた田遊びから生じた神事芸能であるが、田遊びから田楽に発展する過程で派手な衣装を着て飛び跳ねたり、高下駄を履き或いは刀の刃先で玉を操ったりと散楽や念仏踊りの影響を受け、しだいに芸能化して芸の幅を広げていく。春日若宮おん祭(例年12月に斎行)などで豪華絢爛な絶頂期の田楽の装束を見ることができる(画像左)。
田楽は平安初期のころ都でも行われ、宮廷貴族の間でももてはやされていたことが栄華物語などからわかる。しかし、やがて田楽のワキ方から田楽の能や、猿楽の能が生じ近世以降、田楽は都からその姿を消した。今日、京都府下においても、わずかにヒヤソ舞い(綾部市・高倉神社)などに田楽の断片を残すのみとなっており、御勝ビンザサラ踊りは大変貴重と思う。
紫宸殿楽は17世紀には行われていたようである。しかしいつのころからか、25年に1度の御勝大祭で演じられることになった。なぜ25年に一度なのか、その理由の一切がなぞに包まれている。25年というサイクルは大体、各戸当主の世代代わりの期間(25〜30年)とみられるので、1当主1回の大事として親から子へと引き継がれてきたものではなかろうか。さらにデンガク(田楽)をことさらシシンデンガク(紫宸殿楽)と呼ぶ理由については、中世における当地荘園の領家が妙光院(門跡寺院)であっから御所(紫宸殿)との連想から語呂を重んじてそのように呼ばれるようになったのはないかと思う。そうするとビンザサラの起源も中世にさかのぼると考える余地もあるのではないかと思う。− 平成27年10月−