京都
三河内の曳山祭−与謝郡与謝野町三河内−
 京都・丹後に三河内(みごうち)という旧村がある。そこは加悦谷のすぐ北にあって、与謝郡与謝野町に属する町である。
 三河内の街道を往くと、木造2階建て平入りの大きな民家が軒を連ねている。その造りからこの町が加悦、峰山とともに「丹後ちりめん」(織物)で栄えた町であることがわかる。
 三河内の鎮守は‘倭文神社’。神社は延喜式内社。難解な名称であるが‘倭文’は‘しどり’と読み、麻の糸や布を意味する。舞鶴の倭文神社など全国に同名の神社は多い。
 倭文神社に向かって左脇の丘や裏山に群集墳が所在する。それらの立地環境などから推し、この町は少なくとも千五百年以上の歴史がある古い町だ。丹後の織物の起源を三河内に求める者もいる。三河内は、古代から現代に至るまで途絶えることなく麻や絹を織り続けた日本最古の織物の町であることに間違いはなさそうである。
 倭文神社の春の例大祭は5月2〜4日(5月2日神幸祭、5月3日宵宮、5月4日本祭)。近在に‘三河内曳山祭’できこえる祭だ。
 本祭の日、掃き清められた民家の玄関先に日の丸が掲揚され、大きな提灯を掛け晴れの日を奉祝する。
 山車を出す各町内の宿(やど)では祭壇を設け、大きな御幣を祀るところもある。実に厳粛で華やかなものである。町主は祭壇に脇の間(接待所)を設けて、氏子各位に心遣いを示す。
御旅所での神楽 神社から5百メートルほどのところにる御旅所がある。午後1時過ぎ、御旅所に山車が次々と参集する。
 御旅所脇の「宿」(やど)から鉦や笛、太鼓の音が聞こえる。午後2時過ぎ、すでに宿所内は氏子で立錐の余地もない。神前で神楽が奉納されている(写真上)。
 三河内神楽の本態は獅子舞。丹後では神楽を獅子舞で奉納するところが多く、石見や備後、安芸辺りの神楽とはだいぶ様相は異なる。しかし曲は剣の舞、四方掛(拝)などで形態は違っても相互の共通点はある。
 三河内神楽は江戸期に大流行した伊勢信仰によって大神宮の札配りやお払いをして全国を巡回した伊勢大神楽の影響下で形成されたのだろう。現代の伊勢大神楽と比較して三河内神楽のそれは曲芸的な動作は少なく、笹ばやしにのった軽妙かつ機敏な動作に特徴がある。見ごたえのあるよい曲が伝承されている。文政6(1823)年の町の記録に神楽組の存在が記されていると云い、祭りの要といえるだろう。
 神楽の奉納が終わる午後2時45分ころ、祭りの行列が御旅所を出発する。
 先頭は倭文神社の祭神天羽槌雄之命が宿る御幣(写真上)。後に大幟、傘鉾、神楽殿、続いて神官、山屋台、子供山が巡行する。大幟は6メートルもある。その後ろに「浦島山」、「春日山」、「倭文山」の各山屋台が続く。山屋台の鉦や笛、太鼓の囃子はそれぞれが異なっていてこの祭りには囃子を聞きわける楽しさもある。
 山屋台は子供屋台を加えると12基。山屋台は実に大きなもので、浦島山は高さ4.87メートルもある。

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 往くほどに行列は小さなせせらぎ(野田川の支流岩屋川)に差しかかる。そこは倭文神社の南東の方角に当たり、川は道路下の暗渠を流れ、小西デンキ店のはす向かいに現れ、流れ出ている。このせせらぎの前に来て、なぜか行列は歩みを止める。氏地の群衆がこのせせらぎのはきだし口をめがけて集まりはじめる。またたくまに黒山の人だかりができ、身動きがとれない。なにかが始まりそうな気配である。
 やがて、せせらぎに向かって一人の役職者が大声で「おーい」と叫ぶ(写真上) 。せせらぎは東に向かって流れ、その先は田んぼ。再び気合の入った大声で「おーい」と叫ぶ。
 こんどは役職者の「おーい」の叫びに唱和して群衆が「おーい」「おーい」と二度、三度、大声で「おーい」を連唱する。迷い子の捜索の訓練のようでありまた、誰かを呼んでいるようでもある。しかし、せせらぎの先に人がいる気配もない。「おーい」と叫ばなければ取り残される、旅人はわけがわからないまま、一緒になって「おーい」、「おーい」と叫ぶ。気を取とり直して「なんですか! なんですか?」と、慌てた様子のご婦人は遠来の旅人であろう。
 普段大声を出す機会もなくなった今日、大声を出すと爽快感がある。氏地の老若男女の顔色は高潮し、にこやかだ。
 この「おーい」の大声の一件につき、土地の人は、祭神天羽槌雄之命が対岸の須代(すしろ)神社の祭神(女神)に声をかけ、田んぼの中の一本松のそばで逢瀬を重ねる合図だという。大声の発生場所から、田んぼを挟んで東側の須代神社(与謝野町明石)までゆうに2、3キロはある。大声を出さないと須代の祭神さまに聞こえないわけだ。
 須代神社は、裏手に銅鐸出土地や群集墳があり、よく知られた作山古墳に近い。須代神社は、倭文神社と同様の延喜式内社。似たような立地環境にある二つの古社は、野田川を挟んでその中流域を支配地とした同族であったのだろう。「おーい」の発声は単なる神招きと考えるより、古い時代に祖先を同じくする神々の流域支配の永遠の契りであったのかもしれない。そんなロマンを感じさせる。
 「おーい」、「おーい」の神事を終え、行列は往くほどに十字路に差しかかる。そこは山屋台の回転場。屋台を直角に回転させる。宮入リ直前のクライマックスが演じられるところだ。狭い十字路は黒山の人だかりができている。
 三河内の山屋台は、京都・祇園祭の山車のように竹で車輪を滑らせてまがる方法をとらない。十字路が狭く、ゆっくりと山車を回転させる余地がないのだ。そこで、十字路の中央に、ロクロのように回転する円盤状の木台を置き、木台に刻まれた溝に山車の中輪をはめ込み、一旦静止する。次に、山屋台の曳き手は曳き綱もろとも90度(神社側の道に)態勢を変え、一気に山屋台を引っ張ると山車は直角に回転するしくみ。実に手際よく操作され、回転がうまくいくと観衆は拍手喝采。山車は次々と参道を上っていく。
 午後4時40分ころ、すべての山車が倭文神社の階段下に到着する。神社境内で神楽の奉納がはじまる。曲目は「剣の舞」、「幣の舞」、「四方掛」、「乱の舞」の4曲。むかし八朔祭で舞われたという曲も、祭の斉行日の変更によって5月の例大祭の日に舞われるようになったよしである。舞いはじめに獅子による子供の頭噛みがあり、子等は競って獅子の口めがけて頭を突っ込み、健康、学問成就の願いを神楽殿の御神体である獅子頭に託する。
 神楽(獅子舞)の舞手は袴に白足袋。尻取りは顔を出したままで獅子頭との距離を測りつつ軽妙に動く。丹後の神楽は、概してこのようなかたちの獅子舞が多く、実に厳粛なものである。三河内神楽の曲目中、「乱の舞」は特に激しい動きとストーリーを伴っている。奉納は春の例大祭限りという。「乱の舞」は丹後神楽の白眉であろう。百聞は一見に如かずである。ご覧になるとよいだろう。
 午後4時25分、神楽は終了。
 一時して、山屋台が集結する神社の階段下に再び群集が集まり、狭い参道は身動きが取れない有様。また何かが始まる予感がする。今度は万歳三唱の予告があって、まず役職者による第一声。裂ぱくの気合がこもり、大声の限りを尽くしたような万歳。群集もまた、負けてはいない。実によい間で万歳を繰り返し、午後5時ころ本宮祭は打ち別れ。山屋台はこの後、午後8時30分ころまで町内を巡行し、例大祭は終了した。
 三河内曳山の宵宮は夜祭。見逃してしまったが、提灯を吊るした山屋台が午後10時ころまで町内を巡行すると云う。山屋台の幕や欄干の金具の毛彫りなども実に美しい。三河内曳山祭は良い祭りである。−平成25年5月4日−