若狭ノート

お水送り−小浜市上根来−
お水送り拝覧記
 小浜湾に注ぐ北川の支流に遠敷川(おにゅうがわ)という川がある。その上流部一帯が根来(ねごろ)という地区。
 遠敷川の上流から根来八幡神社(南北朝のころ東大寺鎮守の手向山八幡宮を勧請)、白石神社(若狭比古神社の前鎮座地、境外社)、若狭神願寺(遠敷明神を祀る神仏混交寺院。鎌倉期に若狭比古神社の別当寺となり神宮寺と改称)、若狭比古神社(延喜式内社。明神大社)等が連なり、遠敷川流域は遠敷明神(若狭比古)の足跡を湛えて余りある。
 冬来たりなば春遠からじ。平成25年3月2日。朝から雪まじりの強風が吹き荒れている。その名は音無川(遠敷川の別称)というのに、水かさを増した川瀬に波が立ち、寒々とした山の端を白々と染めている。
神宮寺
神宮寺
行衆の入堂
行衆の入堂
 例年、3月2日は遠敷川の鵜の瀬で若狭のお水送りが斎行される日。この日、午前11時ころから根来八幡神社で山八神事が行われ、午後1時ころから神宮寺で修二会、弓打神事などが斎行される。同5時半ころは僧衆、修験衆、神人衆が本堂に上がる。修二会の行儀は非公開。
 午後6時半ころ、本堂の灯明の火が達陀松明に移され、内護摩(達陀)が施される。内陣、内外陣の境で達陀松明が振りまわされ本堂は火の海となる。奈良二月堂の修二会が「お水取り」、「お松明」と呼ばれるように、神宮寺においても水と火に人気が集中するようであり、本堂周り(お松明)や鵜の瀬(お水送り)に参詣者が集中する。
達陀松明(神宮寺)
 午後7時ころ、本堂の向拝下で達陀松明が受け渡され、神宮寺境内の結界に入る。そこで修験道の作法が修せられ、大護摩壇に火が採られ護摩供の加持が行われる。2、30メートルもの火柱が立ちのぼり、火炎の中で行われる加持は実に厳粛で壮大なものだ。
大護摩加持
 午後7時半ころ、神宮寺結界において、護摩壇に大籠松明を差し入れ点火。行衆、参拝者は次々と護摩火から松明に火を移し手に手を松明を持ち、大籠松明を先頭に立て鵜の瀬に向かう。
 途中、数回新たな籠松明に火に移し替え、行列は進む。行列は1キロ余の長蛇の列を成し、遠敷川の流れに沿って松明の火が点々と灯り、揺らめく光景は実に幻想的なものである。遠敷川沿いに進むこと約2キロ、鵜の瀬に着く。
行衆のお松明
 鵜の瀬では、漆黒の闇のなか折からの荒れ模様の天候で、水量を増した急流が岩場を叩く。ところどころで赤々と燃える松明の火が鵜の瀬を浮かび上がらせている。
 大籠松明を先頭に、次々と行衆、参拝者が鵜の瀬に到着。行衆は、鵜の瀬の川原に組まれた護摩壇周りの所定の位置につきお祓いを受ける。
 午後8時過ぎ、護摩壇に点火。参詣者の手松明は修験者の加持を受け、護摩壇に投げ込まれる。護摩壇の火勢と次々と点火される大松明によって鵜の瀬が赤々と照らし出される。強風に煽られた烈火が行衆に迫る。背後は鵜の瀬の激流。鵜の瀬の護摩は続く。
鵜の瀬の大護摩
 午後8時半ころ、水師や行衆が鵜の瀬に架けたささやかな橋を渡り始める。川向こうの淵をなす鵜の瀬の崖っぷちに水師が立つ。水司、承仕が水師の脇を固め、水師が送水文を読み、法刀を抜いて水切りの神事を行い、続いて小さな桶に入った香水を鵜の瀬の淵に注ぎ流す。
 こうして香水流しが終わると、水師らは再び橋を渡り元の護摩壇に戻り、結願作法を修する。
 午後9時過ぎに鵜の瀬のお水送りの神事は終了した。
 予想に違わない水と火の祭典だった。−平成25年3月−
香水流し(拡大

お水送り雑感
 平成25年3月2日、若狭・遠敷川の鵜の瀬で「お水送り」が斎行された。若狭のお水送りは、奈良東大寺・二月堂下の若狭井に香水を送る儀式。鵜の瀬から送られた香水は十日間かけて若狭井にとどき、3月13日の後夜に汲み取られ、二月堂の一年中の香水に施される。深夜の行法である。
 奈良のお水取りは、二月堂で3月1日から27日間にわたり斎行される修二会中、最もよく知られた行儀。この日はお松明も重なって多くの参詣者で賑わう。
 お水取りが終わると関西に春が訪れるという。天平勝宝4(752)年以来、約1300年間、奈良のお水取りは途絶えることなく連綿と続く行事。芭蕉も一茶もお水取りに杖を曳いた。日本で最も有名で厳粛な行事の一つだろう。
 若狭・鵜の瀬のお水送りと二月堂若狭井のお水取りに不思議なエピソードが伝えられている。東大寺要録によれば、練行衆が入堂(3月1日)し、神名帳の行儀を斎行中、若狭の遠敷明神が現われ、閼伽(梵語の水)水を奉献せんとのお告げがあったと記され、この故事が若狭のお水送りの根源となっている。
 しかしなぜ、修二会の神名帳中に遠敷明神が現われ閼伽水(香水)の奉献を告げたのか、東大寺要録はすべてを語りつくしていない。
 遠敷明神(若狭比古)は、若狭の開拓者。神位を得て、はじめ音無川(遠敷川。北川の支流)に沿う白石というムラの白石神社に祀られた。後に白石から2キロほど下った若狭比古神社(延喜式神明帳明神大社。若狭一の宮)に鎮座。同社の少し上手に若狭神願寺がある。同寺は遠敷明神を祀る神仏混交の寺。鎌倉期に若狭比古神社の神宮寺となり、名称も神宮寺に変わった。このように遠敷明神は遠敷川流域に起居し、神として祀られたいわば古代若狭のヒーロー。
 このことから遠敷明神が二月堂に出現し、香水の奉献を約した水源地乃至送水地は遠敷明神の故地白石神社の近く(鵜の瀬)であるべきことは大体、察しがつく。しかしなぜ、二月堂の修二会の香水が若狭から送られなければならなかったのか、はなはだ解りにくく、解釈に苦しむ。
 私は、東大寺の開山良弁僧正と、良弁の弟子で天平勝宝3(751)年10月、二月堂を建立し、同4(752)年2月1日(旧暦)から始まった修二会において十一面観音悔過法を修した実忠和尚の2人がいずれも若狭とりわけ根来(遠敷川流域の地区名)縁の人であったこと、かつ実忠和尚が大同4(809)年2月5日、後夜行法の最中に入寂したこと等々を重ね合わせると、お水送りは2人の供養のため実忠入寂からそう遠くない時期に遠敷明神を影向させ、香水の奉献がお水送りとして修二会の行儀に加えられたのではないかとみるのである。
 良弁僧正の生誕地は白石神社の氏地白石と伝えられる。実忠和尚はそこから2キロほど下った若狭神願寺で修養を重ねたインド僧。二月堂の修二会において籠松明を多用し、3月12、13、14日の後夜の後に修され内外陣を火の海とする達陀の行法などは中央アジア・タタール国の拝火教の影響が想われ、また行儀に盛られた弘法以前の密教的実相は若狭から丹波・丹後地方で広く行われていた修験道の影響と考えてもまったく的外れとも思われない。インドで生まれ、若狭で過ごした日々が実忠の修二会の行儀に昇華し具現化したことは、この時代の自由で奔放な宗教的雰囲気が実忠入寂後も東大寺の仏徒に受け継がれ、実忠への尊崇の念がお水送りとなって修二会の行儀に加えられたのだろう。ここにも当時、仏教を謳歌した国際都市奈良の先取性がみてとれる。
 さらに、若狭の鵜の瀬と二月堂の若狭井に水脈が通じ、鵜の瀬から若狭井に香水が送られるという壮大な伝説(ストーリー)を生みまた、その水脈は鵜の瀬の黒白の鵜によって通されたという美しいロマンまで生んでいる。それらの伝説は、良弁、実忠という賢者が若狭から雄飛し、奈良仏教の先駆をなしたという人脈をお水送りという行事に潜ませたようにも思われる。
 若狭から京都、奈良は意外に近い。さば街道をたどると若狭を夕刻に発てば、昼までには出町柳(京都)に着く。神宮寺から遠敷川を遡るコースを辿ると奈良まで100キロほど。航海には日本海という海のハイウエーもある。大陸から渡来する者は、朝鮮半島を発ち対馬海流に乗れば、丸木船でも1昼夜のうちに丹後、若狭にたどり着く。北九州はもとより山陰、三丹(丹後・丹波・但馬)、北陸には古代より渡来人の足跡が数多くある。実忠がそうであったように、良弁もまた渡来人であったかもしれない。日本海は、遠い昔には日韓両民族が往来し、環日本海文化を共有し日韓共通語も存在したに違いない。私たちはその残影を今も、各地の地名や神社の名称等に見出すことができる。当時の東アジアを想うためには、日本海を中心に据え、今のそれとは異なる南北逆の地図が必要だろう。 −平成25年3月−
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