奈良豆比古神社の翁舞−奈良市奈良阪− |
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平成21年10月8日、奈良阪の奈良豆比古神社の秋祭り(宵宮)で地元に伝わる猿楽の「翁舞」の奉納があった。翁講保存会によって奉納される翁舞は、同社に応永20(1413)年記銘の能面「ベシ見」が伝承されていることから少なくとも数百年以上、連綿と勤仕されてきたのだろう。
猿楽は能や狂言の淵源といわれる。その歴史は神楽や踏歌と同様に相当古く、平安時代には完成したといわれる。室町時代に興福寺・春日大社に勤仕した大和猿楽4座の中から観阿弥・世阿弥父子がでて今日の「能」に発展する。世阿弥は「申楽談義(さるがくだんぎ)」で‘申楽は神楽なれば、舞歌二曲をもって本風とすべし。’‘申楽の舞とは、・・・この道の根本なるが故に翁の舞と申すべきか。また謡の根本を申さば、翁の神楽歌と申すべきか。’と述べている。ここに世阿弥が翁舞をいかに重要視していたかがわかる。その精神は「能」の「翁」に引継がれ、極めて神聖な取り扱いを受けている。
わが国には、老翁を完成霊魂として敬い、神格化する考え方が存在した。猿楽の翁舞は、まさにそうした招福、繁栄をもたらす神としての老翁を暗示させる。
午後8時ころ、奈良豆比古神社の拝殿に千歳(せんぞう)、三番叟(さんばそう)、太夫(たゆう。他に脇二人の翁)が着座し、翁舞の奉納が始まる。この三役を指し翁舞の「式三番」と称する。世阿弥の花伝書によれば、秦河勝の芸を伝える子孫の秦氏安が66番の申(猿)楽を紫宸殿で演じていたところ、1日で勤め難いとしてその中から三つを選び出し演じたことが記されている。今の式三番である。そうすると、翁舞はもと三番の翁舞からおこったもので太夫、千歳、三番叟はいずれも老人の扮装であるべきところ、千歳はどうみても老人ではない。嘉慶元(1387)年の春日臨時祭記に小冠の記録が見え、このころすでに千歳の前身がうかがえる。その間のいきさつについて、世阿弥の芸談をつづった申楽談義によれば、応安7(1374)年観阿の芸をはじめて見た足利義満から(式三番中の)第1番の出しものを聞かれた際、「大夫にてなくては」と答えており、他の翁舞との区別をする必要性が生じたのでないか。千歳の名称についてもその成立時期はよくわからないが、名称から推す限り老人の趣もあり伝統を無視したことにはならない。猿楽本来の滑稽さや勢い、明るさを導き出すためにも千歳はどうしても必要な役柄だった。
太夫と地謡の前謡の後、千歳舞、太夫舞、翁三人舞、三番叟と千歳の問答が演じられ、三番叟舞で終了。千歳舞はいわば露払いで素面の少年が舞う。三人の翁と三番叟の4人はいずれも面をつけ、三番叟は黒面をつける。三番叟は千歳と問答の後、後舞を舞い終る。都合1時間ほどの舞である。太夫舞は荘重にして所作にも古色がある。
翁舞を通観すれば、舞いながら歌う演者の歌はそれぞれ、‘千代までおわせませ われらも千秋そうらわん(千歳)’‘千秋万歳の喜びの舞いなればひと舞いまおう、まんざいらく(太夫)’‘棟に棟をならべ門に門をたて富貴栄華を守らせ給う、これ喜びのまんざいらく(三人舞)’などと土地や家を礼讃する。そして、そのストーリーも、道行から饗応までの一連のまつりの行事のありさまを伝えているように思われる。
太夫が前謡でうたう‘とうとうたらりたらりろ たらりあがりららりろ’という呪文のような謡があり古来、その解釈につき諸説がある。私はどうも本番前の慣らしのような印象を受ける。しかし、とうとうたらり・・・の淵源につき、能役者は様々の神聖な説をひき、ある者は西域の陀羅尼の詞章説をとる。賀茂真淵や荻生徂徠はこれらを否定する等々、定説はない。(丹後の大宮売神社に伝わる三番叟においても同旨の前謡を伝えている。)
またこの前謡は、春日若宮御祭(おんまつり)において、影向の松のもとで笛を奏し謡われる。慣らしのような慣習と解し、謡を笛の譜で表象すれば、‘とうとうたらりたらりろ たらりあがりららりろ’のような発声になるのではないか。小澤征爾さんなどオーケストラの指揮者が譜面をなぞってこのようなリズムで発声をする予行演奏の風景を見聞された人もいるだろう。
さて、千歳が舞いおわり太夫が第一声に‘あげまきや とんどうや’と歌う。あげまき(総角。頭の中央で髪を左右に分け、丸く束ねた髪型。少年。)の歌の趣旨につき、催馬楽(さいばら)をひきそのくだけた部分だけが強調されるむきもなきにしもあらずであるが、あげまき云々の歌は神楽歌などにも散見されるのであり、往々に祭事の歌謡に慣用されていたのだろう。
さ
奈良豆比古神社には20面を数え
る能狂言面が伝えられている。うち、
国内最古級のベシ見(面)は応永
20(1413)年、千草左衛門太夫作。
唇を咬んでヘシ口にした異形面。天
狗をあらわす。翁舞に使用される面
は何れも古様である。面は能面狂言
面の範疇であっても今日のものと
は全然異なる猿楽面である。猿楽の
完成期とみられる平安時代には存
在したものだろう。口裂の線で上下
切り離し、紐で結び合わせてある
(写真左上)。 |
らに、翁舞は、翁面の運搬、着用につきその神事芸能的な形態を色濃く残す所作がある。一つは、観衆注視のもとで面の入った箱が舞台に運ばれ、後見によって翁面の着用が慎重に行なわれる点である。この所作は、老翁の面が勤仕の演者に捧げられ、面をつけた老翁は神となり、天下太平、家族繁栄をもたらすという翁舞の原初の神事芸能的なありさまをうつすものであろう。新化した能では観衆の前で面の着け外しをみせることはない。近世の義太夫による舞踏‘寿式三番叟(弓矢立会)’などではさらに進化し「面箱」が登場し舞われるが(面箱を捧げ持つ舞い手の役柄も「面箱」という)、面箱から翁面が取り出されることも、実際に翁が面を着けることもない。猿楽を神遊び(舞踏)の淵源とするストーリー上、面箱に重要な意味が与えられ、新進気鋭の役者が起用される。
二つは、三番叟と千歳の問答につき、両者が対面することななくそっぽを向き合って話する点である。千歳は三番叟に‘三番申楽きりきり尋常に、おん舞いそうて座敷ざっと御なおり候へ、じょうどの(慰殿)’と三番叟に舞を促すのであるが、三番叟は横を向いている。黒面をつけた三番叟は神であるから、常人の素行とは異なるのである。
奈良豆比古神社は延喜式内社である。明治維新に到るまで、歌舞音曲の役者たちにその司神として興行の許可を与えていたという。−平成21年10月− |
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