播磨灘に注ぐ与田川の上流で、水主三山(虎丸・本宮・那智の各山)が形よく並んでいる。その三山の中央が水主神社(みずしじんじゃ)。鬱蒼とした樹林のなかにある。春日造りの美しい社である。
杉の巨木が境内を覆い、本殿前にチノワ(茅で作った輪。写真中央)が掛けてある。薄暗い社殿の中でかいがいしく動く人影が見える。夏越祭(なごせ)の準備という。今日は本祭、明日は夏初穂祭であるらしい。社近くの店では、祭り用の菓子の詰物づくりが行われている。千年以上続く水主(みずし)の里人の変わることのない夏の風景。
水主神社は、承和3(836)年に神階を授けられ大明神(正一位)に累進した讃岐最古の延喜式内社である。祭神は倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)。大和の箸墓の主と考えられ耶馬台国の卑弥呼とみる説もある。倭迹々日百襲姫は幼少期から成年期まで水主に滞在し、農業や水路などの水徳自在の神と称えられるようになり、次第に神格が形成されたと社伝にある。水主地区は、与田川の流域を含めても田面積はそれほど広くはない。草深い土地になぜこれほどの由緒をもつ神社が存在するのか。
香川の平年降水量は全国平均の約60パーセントと少ない。古代においては溜池の築造や灌漑技術の優劣が稲作の明暗を分けたことが容易に理解できる。水主は稲作の伝播からそう遠くない時期に、讃岐一円を舞台に活動した先進的な農業水利技術をもつ集団が居住したところではなかったか。その集団の象徴が百襲姫であり、里人には先進技術によって豊饒をもたらす美神に映ったことであろう。
高松市の郊外・一宮町に所在し、水主神社と同じ倭迹々日百襲姫を祀る田村神社(讃岐一の宮)は、ひょとして水主に由来する農業水利技術者集団の氏神であったかもしれない。のみならず、百襲姫の弟・稚武彦命(ワカタケヒコノミコト)は、鬼無など讃岐に残る「桃太郎伝説」の桃太郎。百襲姫一族が讃岐から瀬戸内海の制海権を得る上で重要な島・女木島を手中にして、政治、経済的にも着実に力を蓄えていった経緯が桃太郎伝説から推測できる。讃岐こそ百襲姫の本貫地。ヤマト王権の淵源を解く鍵が讃岐にあるかもしれない。 |