安芸のはやし田(新庄はやし田)-北広島町大朝-
 鳴滝渓谷の滝水が温み、棚田の畦道にわらびが伸び、水田周りで山藤が薄紫の花房をつけている。どこからか笛、太鼓の音が聞こえる。峡谷の棚田で「新庄のはやし田」がはじまったようだ。
 芸北地方は随分、はやし田のさかんなところである。5、6月のシーズンにもなると花田植、大田植ともよばれるはやし田が、北広島町のどこかで毎週行なわれている。今年(平成18年)は、笛、太鼓が山間にこだまする日が6月4日まで続く。
 北広島町のはやし田の皮切りは5月14日、新庄のはやし田。会場は島根県境に近い鳴滝渓谷。
 はやし田は、平安、鎌倉時代に流行した田楽の流れを伝承する芸能。栄華物語や枕草子などに生き生きと描かれている。
 はやし田は、もともと稲作民が豊饒を願って行った年の始め(5、6月の稲作始期)の神事である。もともと立春正月に行った御田植祭が後年、芸能化(田楽)の方向に分離したのだろう。出雲、播磨、丹波、伊予地方の古社では御田植祭はたいがい1月の例祭。肥後の阿蘇神社の御田植祭のように早乙女(サヲトメ=神ごとに仕える女性の意)が白装束で早苗を頭上にいただく古式をとどめる御田植祭もある。
 安芸のはやし田は、神社の祭田で行なわれる御田植祭でもニワで舞う田楽でもない。神事の要素を遺しつつ田で舞う田楽の伝統を伝え、労働と歌謡が混然一体となり、田植という労働の楽しさをこれほど見事に発露した郷土芸能を私は見たことがない。大都会の片隅で感じる憂鬱と不安をはやし田は見事に吹き飛ばしている。この種のはやし田は、中世には全国各地の稲作地帯で行われていたものと思われるが、今では中国地方や四国などの山間部にその残影をとどめるのみである。
 昭和3年であったかと思うが、東京・新宿区内に新築された日本青年館において「郷土芸能と民謡」(第3回)が開催され、新庄の囃し田が紹介・上演された。この催しが安芸のはやし田の再発見につながった。忘れ去られた日本の祭に、会場は観覧者の深い感動に包まれたという。会場で配布されたパンフ(説明書)に田植歌が掲載されている。朝昼晩と田植の時間帯に応じうたわれた田植歌の歌詞を本稿の末尾にそのまま掲載しておいた。情感たっぷりに何とも楽しく、美しく歌い上げている。歌詞は江戸期に成立したものと思われる。
 はやし田は、清十郎笠をかぶり、ササラを摺って早乙女と向き合う音頭取りをサンバイとよぶ。田植歌の歌詞などからサンバイは田の神であり神職であることがわかる。早乙女は田植笠に赤襷をかけた絣の田植衣裳で田におりたち、サンバイの歌に和してうたう。その後ろから田植太鼓、小太鼓、調子金(銅拍子)、横笛が続く。田植太鼓の2本の撥さきに結わえた白い毛が、合空中高く舞うさまはまことにのどかで、豊穣の予祝にふさわしい演出である。
 安芸のはやし田は、栄華物語に描かれた世界そのままにみえる。しかし、安芸のはやし田は、栄華物語のそれよりはるかにきらびやかであり、それをみる者は貴族ではなく多くの農民である。
 はやし田を見ると、ほっとして気持ちが和みます、と農家の人。はやし田は、秋の神楽とともに廃れることなく続く広島の年中行事である。中国地方のはやし田は、広島県北部地方のほか山口県東部、島根県南部、岡山県西部の山間部で広く行われるが、今は広島が最もさかんである。
 安芸のはやし田は、江戸時代に完成したといわれる。これほどさかんできらびやかなはやし田の背景は何かを示唆してはいないか。大地主の存在のみでは説明がつくまい。中国山地は藩政期を通じ全国一の鉄山経営でうるおったところ。勇み肌のタタラ師の影響と存在を否定するわけにはいかない。タタラ師の豊かな資金によって田楽団が養成され、当時の土地制度とも複雑に絡み合ってはやし田は保存され、発展してきたのだろう。 
 はやし田は、田植の作業能率をあげるための作業歌であるばかりではなく、田の神の由来と神聴を讃えるものである。それは、田の神降ろしにはじまり、シロカキ、エブリツキと早乙女による田植で構成されている。田の神降ろしは、田の前に竹を組み、神棚を設け、三方に苗、野菜、果物を盛り、酒を供え行われる。烏帽子、直垂姿のサゲという者が祝詞を述べ、田の神の降臨を乞うところからはじまる。
 田の神降ろしが済むと、造花や綱で頭を飾り、首に輪袈裟、バレンをかけ牛の背に漆塗りの鞍を置き、傘のついた幟を立てた飾牛が5頭、先牛(1番飾牛)にひかれて田に入り3畝(30アール)ほどの田を一周する。こうして牛は水の高さを知り、田に慣れるという。今年の1番飾牛の追い子は高校一年生の女性。綱さばきも申し分なく、うまいものである。飾牛が田に慣れるとシロカキがはじまる。 シロカキは、牛に馬鍬まぐわをひかせて行なう。こうして土と水とがうまく混ざり合う。
 シロカキが終わるとエブリツキ。シロカキの跡をエブリで平にする作業。いっとき、シロカキとエブリツキが同時進行する。
 シロカキ、エブリツキが済むと、既に記したとおり、清十郎笠をかぶりササラを手にしたサンバイに誘導されて田楽団(田植太鼓、小太鼓横笛等囃し方)、早乙女が入場。サンバイの音頭によって田植がはじまる。早乙女は、絣の着物を着て、手甲、脚絆に菅笠姿。田植太鼓は、菅笠に黒の上下に作業袴をつけたいでたちで太鼓を下げ、両端に馬の毛の飾りがついたバイ(バチ)で太鼓を打つ。
 祭りを指揮する者はサンバイと呼ばれる。サンバイが持つバイには田の神が宿るという。サンバイはいわゆる採り物を持つことによって聖なる田の神を祭る司祭者となるのである。
 はやしのリズムは、はやし田によって異なるといわれるほど微妙な違いがあるという。新庄のはやし田は、テンポが速い八調子。田植が進行し、いっときして食事。早乙女は立ったまま食事をとり、1時間余りで早苗は植わる。昔の田植の実際は、朝の4、5時からはやし田をはじめ、早苗取り、田植え、7時ころの朝食を経て10時ころの昼飯までに2、3番、昼食後は夕暮れまでに4、5番、時間帯にふさわしい歌がうたわれた。
 田植歌は、はじめ田の神おろしに始まり、田植作業の推移とともに、田の神の神威をうたい、昼間の食事時になるとオナリ(炊事係の女性)のうたをうたい、夕刻の作業終いには‘毎年ござるよ田の神さまよ、御縁があるならまた来年も’などとうたって、田の神を送る。田植歌は作業の進行に応じ何度も唄われ、汲めど尽きない歌詞が存在したのである。
 はやし田に先立って、おおあさ鳴滝露天温泉の野外舞台で、大塚少年太鼓、南条おどり、枝の宮神楽団による神楽が上演された。はやし田が終わると餅まきなども行なわれた。新庄はやし田は、古色をとどめるよいまつり。毎年、広島市内の縮景園で行なわれるはやし田は、新庄はやし田が務めている。はやし田がすむと、秋まつりの神楽へと芸北の季節は移ろってゆく。

 はやし田は、いまなお芸北地方でさかんに行なわれる年中行事のひとつ。戦前は、県下で広く行なわれていたが、いま、そのほとんどは、稲作の機械化や兼業化の進展によって、大部分の村落で廃絶になった。しかしまた、のどかな昔ながらの田植を懐かしむ農家も多く、芸北、備北の山間地ではやし田が復活しているところもある。
 安芸太田町中筒賀の井仁の集落で「ことしははやし田をやってもらいました。」と喜ぶ高齢者に出合った。広島市安佐北区の鈴振では田植を心待ちにしているという高齢者もいた。
 昭和30年代は、日本農業の大転換期だった。もう戦後ではないといわれて久しく、昭和39年10月、新幹線の営業開始はその後の日本経済の羅針盤のようにも思えた。
 しかし、農家の兼業化や中山間地の人口流出に歯止めがかからなくなり、同時に中山間地の生産基盤の特殊性や習俗が今日的な経済観念の鋳型にはまらなくなり、その消亡に拍車がかかってしまった。そうした社会の変化は、県下におけるはやし田の存続にも暗い影を落としたことであろう。
 広島の中山間地のはやし田は、ユイという古来の共同作業の名残の側面もあった。近世、一般的に田植組合と呼ばれるようになったが、北広島町の大朝ではモア(催合)といった。近隣の数世帯から十世帯ほどがまとまって田植という一時期の労働負荷を共助によって分散する共済事業にほかならなかった。はやし田はそうしたユイの田植などでもおこなわれた。
 田植の順はクジなどで決められた。田植は神聖視され、サゲという田植の総奉行の指揮の下、各戸から牛やオナリ(炊事係)、早乙女を出し合い、鉦や太鼓、笛を打ち鳴らし田植歌を唄いながら田植は行われた。サゲは、その役割からソウリョウ(総奉行)とサンバイにわける地区もある。
 芸北、備北では、田植といえばはやし田をさすほどさかんだった。大地主ははやし田を競い合い、特に華やかに執り行った。はやし田を花田植とか大田植と呼ぶのもそうした田植の実態をあらわしている。

 田植の日は、4時半から5時頃から苗とりを始め、大火を焚いて暖をとりながら作業を続け、7時には田主宅で朝食をとる。シロカキ、エブリツキが済むと早乙女が苗を植えた。規模の大きな組合になると早乙女は20名内外、100名に及ぶ田植もあった。
 しかし、草取りや稲刈り等の作業能率を上げるため、県下では昭和41年から田植綱を使った正条植が県農政当局によって指導されるようになった。この正条植の普及が皮肉にもはやし田の衰退に拍車をかけたといえなくもない。従来の見当植えの時代は、早乙女頭の見当にしたがって植えられ、はやし田が成り立っていた。田植綱の次には枠植えが考案され、田植環境も著しく変化した(枠植えの用具は写真下参照。写真手前の農具はエブリ(壬生花田植で展示の農具を引用))
 田植綱や枠植えが導入される以前、数名の早乙女だと2時間で1反歩ほどの田に苗を植えた。明け方に苗とりをして暗くなるまで作業すると4、5反の農家であれば、1日で田植は終わり、次々と田を替えた。田植にはやし田が伴う場合には、田植歌も田植の時刻に応じたものが歌われた。早朝の植えはじめはサンバイオロシによって田の神(サンバイ)の由来を歌い、正午頃にはオナリ(又はオナリド)の美しさを詠歌し、日の暮れにはサンバイを送る歌が歌われた。サンバイオロシが田植歌の総称のようにいわれるのは、それが田の神の由来(田の神は天の大神を父、水の神を母とする)を歌っているからであろう。広島、島根あたりでそう呼ぶオナリは単に田植の参加者に飯を用意する女性ではなく田の神(サンバイ)に飯を盛る若い女性、巫女をさしたのだろう。そのような優雅で清婉な歌詞をもつ田植歌がこの地方にはいくらでもある。そのほか夕暮れ時に作業能率を上げるためにうたう歌や苦しい労働歌、少し艶っぽい歌など田植歌は汲めど尽きないほど豊である。自他合同の作業はまた早乙女の地域社会へのデビューをはかるものだった。浮き浮きとしたはじらいと華やかさがはやし田のもう一つの顔だった。
 6月中にほとんどの集落で田植は終わっていた。平均より田の多い農家は、賃金で早乙女を雇い、各戸の提供労力の平準化を図り、一気に田植は進んだ。戦後、3、4人の子を育てる農家は珍しくなく、寺などが臨時託児所となって子供を預かった。田の神は妊婦や子供を歓迎するといって田に妊婦が入ったり子供を畦に座らせたりするところも全国的にはあった。(参考:大和の子出来おんだ祭(御田植祭)

 はやし田は、鉦や笛、太鼓のはやしで田遊びをする集落の全員参加の行事。漢語の田楽はつまりは田遊びである。戦後、農家の生活は楽なものではなかったにせよ、隣り近所が助け合い活気に満ち農村は生き生きとしていた。
 しかし、昭和30年代半ば頃になると農村から都市へと若年労働者が流出するようになり、農業の機械化が次第に速度を増す一方、都市と農村、農業と工業、農民と都市生活者といった社会の対立構造が顕著さを増し、米価の相対的価値は下がり続けるという展開の中で、農民は次第に赤字を農外所得で埋めるという矛盾を抱え込むようになる。当時、全国的には兼業化の促進を唱える農業指導者もいて、またその本質がよく理解されないままユイ等の共助の習俗が廃れ、多くのはやし田が中山間地の山田に消えたのである。
 二千年以上続いた我が国の稲作は、その周辺に四季折々の特異な文化の花を咲かせてきた。しかし今、僅か半世紀もたたない間に、農業の衰退とともに稲作文化も消亡の危機に陥っている。稲作にまつわる行事やまつり、農村・農家の動向に関心を寄せる人もいなくなった。もはや後戻りはできぬが、希望の灯がみえるときもあろう。大事に大事に、稲作文化のともし火を守らねばならない。-平成18年5月-

新庄囃し田(田植歌)
  第3回「郷土芸能と民謡」(昭和3年) (パンフから引用)
朝歌
 おろし  歌ひはじめにまづさんばいにまゐらしよう
 ゆり歌親歌   さんばいはヤアレ今こそおりやる宮の方から
 子歌  宮の方からヤアレ葦毛の駒に手綱よりかけ
 おろし 手綱よりかけ今さんばいがのられた
 おろし 葦毛の駒にさんばいのせていさましょ
 親歌  今朝殿の見送りに銀の髪挿落いた
 子歌  落いたのも道理ヤレ殿に心とられた
 おろし 今朝の髪挿朝草刈が拾うた
 親歌  今朝鳴いた鳥の声良い鳥の声ヤレ
 子歌  田に田に五穀はよい鳥の声ヤレ
 おろし さてもよい鳥米八石と歌ふた
 親歌  藍の花つぽんだが何を染めるとての
 子歌  かりゆう袴染めるとてたちはらふたよナ
 おろし かりゆう袴をかちんに染めてまひらしよう
  ゆり歌親歌  白銀のヤアレ黄金の御椽(えん)に腰かけて
 子歌  腰かけてヤアレ髪とく間をば待ち給へ
 おろし 椽に腰かけとかうとすれば縺(もつ)れる
 おろし 髪が長うて御椽で髪さばいた
 親歌  さんばい髪に若う結え若う結はねばの
 子歌  都召しだよ若う結はねばの
 おろし 乱髪をば寝乱れかけてとかれた
 おろし 乱髪をば寝乱れ髪と言われた
昼歌
 親歌  京へ上るつれないかいの
 子歌  われがもとのさいたのもつれてのぼれかし
 おろし つれてのぼり京清水でおがませう
 親歌  京へ上れば先づむろの宿で
 子歌  えてを言ふたり話したり殿を惑ひたりの
 おろし 殿のまどひに京白鷺(さぎ)の羽入れよう
 親歌  京へ上ればむろの林での
 子歌  鳴く鵯(ひよどり)は何に恋に鳴くやら
 おろし 鳴く鵯は小池に住むのが鴛鴦(おしどり)
 親歌  京のさとは假粧)さと鴉鉄漿(かね)つけての
       (つばめ)は紅をさいて京は小袖をきるとな
 おろし 小袖着たのは若い鹿の子が眼につく
 親歌   昨日通る傘が今日も通り候な
 子歌  通らば通れかし誰が婿にとらうにや
 おろし  さう言ふても内證はこれの婿ヤレ
 ゆり歌親歌   酒は来る肴は無くしてちん蒿苣(ちしゃ)の
 子歌  ちん蒿苣の葉を酢あへに(なます)へては御肴
 おろし 酒の肴になんぼや蒿苣の酢(すあえ)を
 親歌  一二のお銚子に玉の御酒を入れての
 子歌  田主様はまゐらしようや今日のお祝に
 おろし 酒の酌をばもひとつまゐれととるもの
 おろし 酒を飲んだらなんぼや音頭が勇んだ
晩歌
 親歌  今日から下る女郎達のきぬの袖になにやらう
 子歌  墨硯筆やらうからくれなゐの帯やらう
 おろし 墨と硯は書かうがための墨筆
 親歌  兵庫沖の飾り船はどこの殿の舟やら
 子歌  銀の幕をまきあげて七五三の舟ヤレ
 おろし さても美しい七五や殿の舟ヤレ
 親歌  何と早乙女今日の代(しろ)のよいのは
 子歌  掻手が掻いだやら今日の代のよいのは
 おろし よいも道理よ三社の神のか乀れた
 親歌  今日の早乙女は名残惜しい友達
 子歌  あらひ川の葦の根で文まゐれまゐれと
 おろし  名残惜しやと言ふて袖をひかれた
 ゆり歌親歌  早乙女のヤアレみあらひ川でしぎょうながれ
 子歌  しぎょうながれヤアレ逢ふてなりとももの言はうや
      しぎょうながれ
 おろし  あらひ川で目しぎょうてものが言はれぬ
 おろし  六月の祇園頃には御堂で踊り合はうや
            (原文のまま。()内の読みは管理人注) 

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