讃岐の奇祭(ひょうげ祭り)−香川郡香川町−
 讃岐の田圃に稲穂が色づきはじめ秋の気配が漂う。香川町の浅野地区でひょうげ祭りが行われた。思い思いに仮装した祭りの行列が実相寺・高塚山麓でくりひろげられた。
  浅野地区集落センターから約2キロ先の新池まで、神輿などが巡行。先駆け役が拍子木を打ち隊列を先導。陣羽織姿の露払い、天狗、奴、楽人、神輿、巫女、神官などが続く。神官の馬はシュロ貼り。奴のまといはワラ。侍の裃、袴は飼料袋。
 刀や刀の鍔(つば)はズイキイモの茎やカボチャである。隈取よろしく神官や侍などの顔に彩色がほどこされている。道々、ひょうげながら(こっけい
道化歌
ひょうげ祭り
におどけながら)、新池まで練り歩く。稲田や農家の庭先で神輿が右往左往。天狗殿は二度、三度、つまずくように倒れるひょうげぶりである。
  隊列が新池に着くと、神官役が池に矢を放ち土手の上から神輿が一気に池に落とし込まれ、祭りのクライマックスを迎える。池の岸辺で獅子が舞う。陽が新池を染めるころ、祭りの終わりを告げる。
 祭りに先立ち民謡が披露された。道化(ひょうげ)唄、田植え唄、讃岐草取り唄、稲上げ唄、豊年コイコイ唄が唄われた。コイコイ唄は、豊年万作への農民の率直な願いが少し厚かましいほどに表現される。♪・・・豊年万作サッサとコイコイ♪、と大変愉快で調子のよい唄である。稲の成長に合わせて、これらの唄が節目節目に唄われていたのだろう。
  道化(ひょうげ)唄は、四方から石鎚を上げ下げする踊りが加わる(写真右上)。讃岐はため池が多い。踊りの所作は溜池を修築する版築作業の様子を写したものだろう。
 ひょうげ祭りは、保存会によって主催され子供神輿なども出て嗜好も豊か。子供達も思い思いに仮装し楽しそうである。大人に交じり地域社会を知る大変よい機会である。顔つきが活きている。
  ひょうげ祭りは、越中など日本各地に残る五穀豊穣を祝うつくりもん祭りの系譜に属する祭りと思われるが、溜池に関わる故事に由来するところが讃岐らしい。浅野地区一帯は、緩やかに傾斜しかつ土地に高低があり、用水(溜池)の確保が稲作の明暗を分ける。
  ひょうげ祭りは、江戸期の新池の築造の指導者・矢延平六の徳を偲ぶ祭りである。つくりもん祭りの伝統と融合した祭りといえる。
 讃岐の満濃池や平池など巨大なため池には、それぞれ築造にまつわるエピソードが伝えられている。しかし、新池は少し様子が違った。新池の築造者は弘法大師でも行基でもなく、江戸期の「矢延平六」といういっかいの水利土木技術者だった。一大公共事業である巨大な溜池の築造は藩主の権力を示すモニュメント。破堤の恐怖も同居し築造技術者の責任は重かった。日夜、ため池の築造に励んだ平六であったが、讒言によって玉藻城水攻めの下心ありやと責められ、藩費乱用の罪により哀れにも裸馬(赤牛説もある)に乗せられ阿波に追放されたのである。平六は有徳の技術者であったらしく以来、浅野の人々は旧暦の8月3日(現在は、旧暦の3日に近い吉日)にひょうげ祭りを行うようなったという。
  平六は藩命によって百個所を超えるため池や導水路の築造に携わった。高松に最初に水道を敷設した技術者である。高松市水道資料館に当時の水道施設が展示されているので、見学されるとよいだろう。
  平六は後に、阿波から呼び戻され再び高松藩に仕え、没後に神格を得て富熊の飛渡神社にまつられている。−平成15年9月14日−