滋賀
西市辺・薬師堂の裸踊り−東近江市市辺町−
くる春や裸にたくし薬師堂 <芳月>

 極寒の近江路。寒々とした蒲生野に太郎坊がそそり立ち、八風街道に吹く風が西市辺法徳寺薬師堂の裸踊りへといざなう。
 仏式では1月は修正会の月。岡山の西大寺会陽、京都日野の法界寺の裸踊り等々、修正会の結願の法式として踊りを行うところが各地にある。ふんどしひとつの裸体は潔斎の究極のかたち。修正会の法式によくあっている。
 法徳寺薬師堂を祭り(踊り)の会場する西市辺の裸踊りも、宝木ならぬまゆ玉を奪い合う。各地の修正会結願の裸踊りと異なるところはない。しかし、その踊りは、宮座講中の若連中が主役となって準備し、練り上げかつ他所とはだいぶ異観の行事である。奇祭であろう。

薬師堂
薬師堂内。長押にだしがみ
、右上にまゆ玉が見える
ぼんぼりがかかる町通り

 西市辺の法徳寺薬師堂の裸踊りは1月13日(平成25年)に行われた。行事の概観は、次のようなもの。
 会場は法徳寺薬師堂。本尊・薬師如来が安置された外陣の左方に切られた囲炉裏(いろり)の火が赤々と燃え、堂の長押(なげし)に貼り下げられた‘だしがみ’がゆらゆらと揺れている。
 見上げると、高さ3メートル余の堂の梁にチョンメの木が吊るされている。幹や枝に累々と飾られた‘まゆ(繭)玉’と呼ぶ餅が花を咲かせている。だしがみは立願の信者の氏名を記したもの。チョンメの木はエゴノキ、大事に育てまゆ玉に使います、と地元の人。囲炉裏から立ち昇る煙で堂内はかすんで見える。とにかく煙い。外陣周りは若連中が座る空間を残して、地元の信者や一般参詣者、カメラマンで次第に埋まっていく。
 準備が整い、午後8時25分ころ、‘ドーン’と一発、堂内の太鼓が打ちならされた。これを合図に、宿(公民館)に詰めていた若連中の参詣が始まる。参詣の辻には提灯、ぼんぼりに灯が入る。ぼんぼりに「俺たちの時代」、「西市辺の男なら脱げ!」等々、若連中の決意や風刺が書いてある。これも西市辺裸踊りの伝統的なかたち。

下4人の参詣(拡大
おじゅうにとう!

 参詣はまず警護衆から。羽織袴姿のいでたち。弓張り提灯を持ち、ゴザを小脇に抱える者や酒式の道具一式を納めた竹籠を肩にかけた者などがいる。8名ほどか。堂の鰐口前の外縁にゴザを敷き、2人が扇子をもって向かい合って座る。やがて、警護衆は扇子を置いたまま堂内に入り、若連中を迎える準備。
 境内の2基の籠松明に火が入り、燃え盛る。弓張り提灯を持った宮座の若家(若連中の宿(現在、公民館を使用)をする家。)の主人らに続き、下4人(したよにん)が参詣。着物に袴。羽織は着けない。鳶打の先端にモジリ(藁縄を輪状に丸め括ったもの。若連中見習いを意味するものか。)と御掟目(具体の掟は一、・・・と省略)を吊るし、入堂後、本尊祭壇前の柱に藁縄で括りつけられる。堂に入った下4人は、これから入堂予定の上5人(かみごにん。若連中の年長順に5人。上から順に一老、二老・・・五老と呼ぶ。)に向かい合うかたちで囲炉裏を背にして着座。
 いよいよ若連中の参詣が始まる。羽織袴で1人づつ参詣。おごそかなものである。大声で「おじゅうにとう!」(御十二灯)と唱え、予め用意した賽銭を白紙に包んで本尊めがけて投げつけ、鰐口を鳴らして入堂。この呪文らしい言葉の意味はよくわからないが、薬師堂の本尊薬師如来(木造立像)の守護神十二神将と関わりがあるのだろう。地元信者は、本尊が村人に裸になって踊ってほしいと頼んだところ村人が断ったので、本尊は自分が裸になって踊っていたところ、村人はおそれおおいと裸踊りを始めという起源説を伝えている。本尊の願いを聞き入れることができなかった村人は、十二神将となって本尊を護るべく誓いと加護を祈念し‘オンジュウニシンショウ’と大声で唱えたものが‘オンジュウニトウ’に略転訛した呪文ではないかと思うがどうだろうか。賽銭の額には特段の定めはないという。勢い余って飛び散った賽銭は世話役が供える。

みかんの差出
たばこ盆の廻し
下4人の給仕(拡大
繭玉争奪(ポスターから)

 若連中の入堂が終り所定の位置に若連中が座ると酒式が始まり、堂の要所を警護衆が提灯を持って固める。冒頭、宮座講の承仕(しょうし。宮座講中の還暦までの者から選任され、講の代理として裸踊りなど寺ごとなどにもかかわる。)から挨拶があり、みかん、たばこの入った盆を順次差し出し、一老が受け、たばこが座中に回され一服する。
 次に、下4人の給仕のもと献杯の儀が執り行われる。椀、肴(大根2本)、銚子のお神酒 (白湯)を出し、一献、ニ献、三献と進み謡が始まる。座興や謡で興に乗り、最後の謡‘ゆるすえ’が始まる謡い終わると一老が突如、畳を2回ばかり叩く。座中の者は突如、立ち上がり、堂内に吊り上げた蔀戸の上に着物を脱ぎ捨てて、まゆ玉の争奪が始まる。口々に‘チョウチャイ チョウチャイ’‘チョウチャイ チョウチャイ’と囃し堂内を左回りに回り、踊る。やがて一老が‘とうざい(東西)’と言うと、若中は‘やろじゃい、エッサと踊れ’と繰り返し、‘チョウチャイ チョウチャイ’‘チョウチャイ チョウチャイ’と囃す。ぐるぐる回りながらやがて数名が肩を組み、その上に飛び乗り梁にしがみつく者、そうはさせじと下からふんどしを引張る者、あい乱れて揉み合い混戦が続くうちに、ひとりの若中が梁に上り、まゆ玉が取り外される。まゆ玉を手にした者は良縁と長寿を授かるという。
 午後9時30分ころまゆ玉取りの踊りが終わると、観光客やカメラマン、一般住民は潮が引くように帰り始め、閑散とした境内に戻る。宮年寄りや信者が残り、裸踊りは続く。実はここからが裸踊りの本番であるらしい。

御祈祷御立願の踊り

 一老が‘とうざい、御祈祷御立願の踊り’と大声で叫ぶ。次々と祈願ごとが読み上げられ、夜が深けていく。‘とうざい。何々の踊り’と唱え、一願一踊りで20妙ほど(写真)。踊りにあわせて太鼓が打ち鳴らされる。‘チョウチャイ チョウチャイ ナミアミダブツ’の唱名で宵踊りが終わる。暖は囲炉裏の火だけである。
 宵踊りが終わると、休憩後さらに若連中のみで「中踊り」「朝踊り」が続くという。午後10時過ぎに退散したが、極寒の深夜、裸踊りは延々と続いている。信仰心に支えられたこの祭りの凄みに、ただただ畏れ入るばかりである。−平成25年1月13日− 


西市辺の裸踊り雑感

 宮座は京都、奈良などに遺制が残っている。祭りや年中行事を準備し、実行する村落の組織。もともと神主がいなかった古い昔にうまれ、維持されてきた。祭りが氏族によって行われるという古い時代の遺制をうつし、北近畿における株(カブ)を寄せ集めたような組織を構成する。そこでは宮座の神官を頂点として、宮座を構成する座員が役割を分担し、掟を共有する。政争に巻き込まれることが多かった畿内においては、宮座は村落の自治と祭りを維持する安全弁としても不可欠であったのだろう。時代の変化に対応しつつも、自治会組織と渾然一体となり宮座が維持されている。伝統的な祭りが長く維持されてきた主因であろう。加えて社寺信仰が息づくところでは、まつりなど年中行事はもとより、鎮守の灯明あげや清掃などにも熱心でいつも境内に清々しさが感じられる。近江特に湖南地方においてはそのようなところが随所にある。
 西市辺の宮座は鎮守の若宮神社はもとより、日々薬師堂の清掃を行い、正月には裸踊りをするなど仏式にまで関わる点において特異である。宮座講等の運営や祭りについて菅沼晃次郎氏の調査報告「西市辺の宮座行事ならびに薬師堂裸おどり」(昭和56年。市辺町・宮座講発行)がある。祭見学の参考とされるとよいだろう。宮座の現在を語る上でも必見の記録である。
 現在の法徳寺薬師堂の裸踊りの実際は既述の見聞の通りである。関係者に聞くと若連中は定員35名に対し現在、25名。普通、中学生になると若連中に入るという。定員制の設定は薬師堂(方2間)の規模から生じたものと推され、裸踊り重視の証であろう。宿は若家(わかや。新参の宮座講中)が指名され、講中の寄り合いなどの拠点となっていたが、現在は公民館で行われる、等々、時代の変化に応じ宮座のしきたりも随時、見直しが行われているようである。
 若連中は戦前の若衆講組織(若者が地域の有徳者宅に寝泊りし、清掃や祭りの警備に当たるなどして社会を学んだ。若衆宿や娘宿があった。)に似たところがある。時代は変わり全国の若者宿は廃絶にいたったが、薬師堂の裸踊りを見聞すると若連中は社会の規律を学び、奉仕の精神を養うよい機会になっているように思う。学校教育に欠けた重要な部分の涵養に貢献するところ大といえるだろう。−平成25年1月13日− 


高山の裸祭(潮垢離)<愛媛> 婿押し(春日神社) <福岡>
居籠り祭り<京都> 追憶の港町(若者宿) <愛媛>