滋賀
蒲生野−八日市市等−
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                      <万葉集 額田王>
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも  
                      <万葉集 皇太子>
 万葉集でよく知られた相聞歌である。天智7(668)年5月5日、近江朝をあげ蒲生野がまふので催された薬猟やくりょうのおり、額田王が皇太子(大海人皇子。天智天皇の弟。後の天武天皇)との間で交わした歌である。大海人皇子と額田王は、かつて1子(十市皇女)を設けた間柄であったが、時を経て額田王は天智天皇の妃となっていて、大海人皇子は人妻ゆゑに我恋ひめやもと詠うのであった。もっとも、この歌は宴会のざれ歌と説く者もいる。
 額田王は、中大兄皇子(天智天皇)らとともに斉明天皇に従って筑紫にくだった際、伊予の熟田津でよく知られた歌を作っている。しかし、新羅打倒の願いも虚しく、日本軍は白村江において唐・新羅の連合軍に敗退し、その衝撃が大津京遷都の遠因ともなったことも否定できないであろう。額田王はそうした遠征に従っているし、飛鳥から大津への遷都の道すがら、三輪山の作歌もある。先んじて朝廷と命運を共にする額田王は、自ずと天智天皇との距離も近くなり妃に迎え入れられたということであろうか。

 額田王の標記の歌の題詞に‘天皇遊猟蒲生野時額田王作歌’ としるされている。このときの遊猟が果たして獣猟か或いは薬猟であったのか判然としない。百草の薬草を摘み、摘んだ薬草を薬玉(くすだま)にしつらえ息災を祈る薬猟であれば、相聞歌の環境に相応しいものと思われる。薬猟はそれが古い時代に中国から伝わり、推古天皇19(611)年5月に大和の菟田野で行われた薬猟が記録に残る始まり。そうすると、額田王の作歌のころには一般化していたと考えても誤りではなく、歌の背景としても蒲生野の遊猟は薬猟であって欲しいものである。
 今日、蒲生野のどこで薬猟が行われた定かでない。蒲生野は蒲生郡内の通称ともいえるほど広いが、古くから近江鉄道市辺駅近くの船岡山周辺が蒲生野と呼ばれており、薬薬猟は案外船岡山あたりで行われたのかもしれない。近くに渡来人の足跡を伝える金柱宮址(写真右下)などもあり好都合である。梁塵秘抄に近江の名所として、蒲生野と蒲生野に所在する新羅(人)が建てた持仏堂の金の柱(仏像のこと)が紹介されている。桓武天皇の交野行幸など有力な渡来人が住まいするところは、遊行の対象地として選定されることもあったのだろう。そうすると、渡来人の住む蒲生野にも同様のことが言える。船岡山から蒲生野を眺めると、金柱宮址の彼方で太郎坊が天を突いている。額田王もきっとこの実景を目にしたことであろう。船岡山の頂上に歌碑(写真左下)が建っている。