滋賀
悲運の大津京−大津市−
   楽浪ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも 
   逢はめやも   <万葉集 柿本人麿>
琵琶湖(唐崎)
近江大津京跡
 西暦661年、百済救援のためその子・中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)、中臣鎌足等を従えて出征、西下した斉明天皇は筑紫の橘広庭之宮で崩御。戦陣を整え出撃した日本軍は、西暦663年(中大兄皇子称制2年)、朝鮮半島の白村江において唐・新羅の連合軍に挟撃され大敗を喫した。以後、我が国は大陸の脅威に怯え、筑紫、瀬戸内海に城を構えるなど防衛線の強化を図り、遷都をも考慮すべき事態となった。
 中大兄皇子(天智天皇)の脳裏から唐・新羅来襲の恐怖が消え去ることがなかったことであろう。
 中大兄皇子称制6(667)年、都は飛鳥から近江大津京(写真上。大津京跡)に遷り、翌7年、中大兄皇子は即位して天智天皇となる。大阪湾に上陸した唐・新羅軍が金剛、生駒山を越えれば飛鳥も近い。その恐怖が大津京遷都に影響を与えたことは想像に難くない。
 新政権は近江令の制定、庚午年籍の編成など着々と親政を進めるが、同10年藤原鎌足が薨じると朝廷内部の不協和音が高まってゆく。天智天皇の子大友皇子と皇太弟大海人皇子の対立は、天皇崩御によって火を噴く事態となる。難を避け吉野入していた大海人皇子が翌11年6月、吉野を進発し壬申の乱が勃発する。大海人皇子(天武天皇)が戦を制し、同年7月近江朝は消滅する。遷都から5年4ヶ月、近江朝は志賀の大わだに消えたのである。
 都は再び飛鳥に戻り、近江朝の官衛は時を経ずして荒れ果てていったことであろう。志賀の大わだはこのように淀んでいて、もう昔の人に逢うこともないと嘆ずる人麿。近江の海は大津京の悲運を飲み込んで鎮まっている。−平成19年−