近畿風雲抄
奈良
飛鳥の風−高市郡明日香村−
大神は 神にしませば 赤駒の  腹ばう田居を 都と成しつ 
                     <万葉集 大伴卿>     
飛鳥の五輪塔。入鹿の首塚とも。 明日香村は、大和盆地の南部の村。人口6,600人余の小さな村。耳成山の南西方向にみえる雷、甘樫の二つの小丘の狭間を飛鳥川が流れ、その流域に村の中心部がある。
 川沿いの一筋の道をたどると、川は稲淵、栢森の山地から湧き出て谷を刻み、島庄あたりで扇状に開けている。その右岸に石舞台古墳がある。
 飛鳥は記紀の行間に眠る単なる幻ではなかった。この小さな谷あいから日本の歴史が刻まれてゆく。斉明7(661)年、唐・新羅の侵攻を受けた百済の要請を受け、飛鳥を発ち筑紫に向かった斉明天皇は筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御。斉明天皇に従って西下していた皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)の称制がはじまる。中大兄皇子は称制3(663)年、安曇比羅夫、阿倍比羅夫らを将軍に任命し、救援軍を3軍に編成し、2万7000人の軍衆を朝鮮半島に差し向けたが、日本軍は白村江において唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島から叩きだされてしまう。ヤマト王権は唐軍の侵攻に怯え、緊迫感が極度に高まり飛鳥も安住の地ではなくなった。日本書紀は、対馬から大和に至る要所に城や烽火を配備し、筑紫に防人を置いたとしるしている。その恐怖は、飛鳥を捨て近江遷都という決断を与えるに至ったに違いない。三輪山をのぞみつつ飛鳥を去る大宮人には額田王ならずとも感極まるものがあったに違いない。
 中大兄皇子の称制7(668)年、飛鳥から近江に遷都が行われた翌年、中大兄皇子は即位し、天智天皇となる。その3年後、天皇の容態が悪化すると、皇太弟大海人皇子(後の天武天皇)は吉野に身を引き、時節の到来を待った。天智天皇が崩御すると、大海人皇子は天智天皇の皇子大友皇子との決戦を決意し、不破道を閉鎖し、美濃国不破郡野上に本営を置いた。壬申の乱の勃発である。乱は大海人皇子に呼応し挙兵した大伴吹負が箸墓の戦で大友軍を破って大和を平定し、大海人軍が近江の安河、次に瀬田川を突破すると大友軍は総崩れになり、大勢は決した。672年、大友皇子は山前で自刃。約1ヵ月続いた古代最大の内乱は決着し、大津京は淡海に消えた。
 天武元(672)年9月、飛鳥に凱旋した翌年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮に入り、即位して天武天皇となる。皇后に鵜野皇女(後の持統天皇)が立てた。近江遷都から5年の歳月が流れていた。時の流れは飛鳥を荒廃させ、そこは赤駒の腹ばう田居と化していた。再び、新都の再建が飛鳥ではじまった。古代史上、天皇が最も輝いた時期だった。飛鳥びとには天皇は神にも映ったことであろう。大伴卿は詠う。「大神は神にしませば赤駒の腹ばう田居を都と成しつ」と。   
 壬申の乱はもともと大海人皇子と大友皇子の皇位継承問題を根としている。大海人皇子が天智天皇の中央集権化に反発する地方豪族や貴族の不満分子を取り込み、統治態勢の改編含みの内戦となった。しかし、豪族、貴族らの期待とは逆に、天武天皇は豪族の部曲や諸王、諸寺が支配する山林・池などを収公してしまう。それはまた壬申の乱によって実力を示した天武天皇を神と崇める人々の大勢を覆すことができないほど、天皇の権力が強大化した証でもあった。
 飛鳥は推古天皇がこの地に皇居を定めて以来、都が藤原京、平城京に遷るまで概ね古代の政治、文化の中心地だった。飛鳥寺近くの里道に立つと、早苗が植わった田に風が吹き、飛鳥の山々が田面で揺れている。1400年間、変わることのない田面の下に、幾層もの飛鳥の歴史が埋もれている。−平成19年−