九州絶佳選
福岡
朝倉橘広庭宮跡−朝倉町須川−
 筑後川の右岸(北側)に朝倉という町がある。町の北から北西方向に山が連なり、甘木、三輪、夜須の町がある。それらの山から流れ出た幾筋もの小河川は筑後川の支流を成し、平野を潤している。まことにゆったりとしてのびやかな平野がひろがっている。
 その朝倉に「須川」という山間の集落がある。柿の栽培が盛んなところ。集落の背後に要害の山が巡り、山腹の台地に「橘広庭之宮蹟」の石碑(写真右)が立っている。当地は、西暦661年、百済救援のためにその子・中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)、中臣鎌足等とともに西下した斉明天皇の本宮が置かれたところと伝えられている。筑紫はさながら大和朝廷の遷都の観を呈したことであろう。
 日本書紀は、斉明天皇は当地で崩御し、ここから数キロほど離れた御殿山に仮安置されたとしるす。天智天皇は今の恵蘇八幡宮の一角に丸太の御所を造り(写真左、石碑)喪に服した。喪が明けると本宮を磐瀬宮(三宅)に遷し、3万2000人の兵を朝鮮半島に進めたが、翌662年、日本軍は白村江の戦で唐・新羅の連合軍に大敗。以降、朝廷は那津官家(筑紫大宰府)を十数キロも離れた内陸部に後退させ、防人を配置し、新営の大宰府周りに水城を築き、大野城などの山城を巡らせるなど大陸の脅威に備えることとなったのである。
 日本と友好関係にあった百済は、西暦660年7月に滅亡。同年10月、百済の使者が来日し、救援を要請。これを受け斉明天皇が難波から出兵したのは翌年661年1月。百済の要請から僅か3ヶ月にも満たない期間で軍船や兵の徴用などが可能であったのだろうか。また、斉明天皇は、1月14日に伊予の熟田津を立って75日消息不明のまま、突如、「御船環りて娜大津に至った(日本書紀)」のである。かえりてとあり、娜大津(博多)に入った後、再び娜大津に舞い戻ったと解釈されている。その間の斉明天皇の行動について、松本清張は、いったん娜大津に入ってから、壱岐・対馬を視察し、再び娜大津に戻ったと解している。私は、‘環かえりて’はめぐりめぐってと解し、郡領など豪族から兵船を調達するため所々をめぐった結果、75日を要することになったと考えている。さらに、娜大津から朝倉橘広庭宮に移り同年7月に崩御。斉明天皇の九州での滞在が異様に長く、また博多から遠く離れた朝倉になぜ本宮を置く必要性があったのか。
 朝倉を含む筑後川沿岸地域は、筑後川を下れば有明海、筑紫野のなだらかな丘陵を越えれば玄界灘、東に向かえば周防灘、伊予灘に通じ宇佐八幡宮が所在する。加えて流域は筑後川の水利を得て水稲の生産力も高い地域であったろう。流域に弥生の平塚川添遺跡吉野ヶ里遺跡などが所在する古くから栄えた先進地域である。魏志倭人伝が伝える7万余戸の邪馬台国を支える十分な条件が整った王城に相応しい歴史と伝統のあるところだ。
 朝倉の少し上流に杷木神社という社がある。社は、西暦527年に勃発した磐井(いわい)の乱において、朝廷から遣わされた麁鹿火大連(あらかいのおおむらじ)が幣帛を奉じて戦勝祈願をしたところと伝えられている。
 斉明天皇の本宮が朝倉に置かれた所以は、豊かな生産をもち、朝鮮半島への遠征について、半島に土地勘があり外洋の航海術に長け、兵船の動員力を持つこの地方の豪族の協力を得る拠点としての重要性があったのではないか。そのように考えれば、4ヶ月という長期滞在の意味も解けるように思われる。いずれにしても、唐、新羅の圧力はヤマト王権を震撼させたであろう。その怖れが、膨大な兵員の調達に転嫁され、それらの調達のため筑紫に滞在する期間が長くなったのであろう。恵蘇八幡宮の境内で、大楠の木陰に木の丸殿跡が鎮まっている。
 朝倉や木の丸殿に我居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
  <天智天皇>
                          
 筑後平野の稲田が色づき、田面にアカネが浮き始めた。−平成17年9月−