九州絶佳選
福岡
大野城跡−太宰府市等−
大野山 霧立ちわたる わがなげく 沖嘯の風に 霧立ちわたる <山上憶良>
 西暦663年(天智天皇2年)、朝鮮半島で日本国土を震撼させる大事件が発生した。百済の救援に向かった日本軍が白村江で唐、新羅の連合軍に挟撃され大敗を喫したのである。百済は滅亡し、日本は約300年続いた半島経営から撤退。以降、朝廷は、唐、新羅軍の襲来を常に意識すべき非常事態へと発展してしまったのである。
 朝廷の対応はすばやかった。日本書紀はしるす。僅か2年の間に、外交、防衛の拠点であったを官家(みやけ)を御笠川の下流域から内陸の大宰府に移し、壱岐、対馬に烽(のろし)を置き、防人を配備し、大宰府の前面に高さ13b、幅80メートルにもなる水城(水城、大堤)を築き、背後の四王寺山(別名大野山。標高410メートル)には百済の亡命官人憶礼福留、四比福夫の指導の下、朝鮮式山城を築き延長6.5キロメートルにも及ぶ土塁、石塁を回らせたのである。
 四王寺山の大野城址に門址、桁行10メートル余の倉庫群の礎石(写真上)、井戸等が、また四王寺川の谷間には城の石垣(百間石垣。写真下)が残っている。起伏のある山腹では土塁に替え石塁、石垣が積みあげられた。川底部の石塁は高さは約4メートル、幅は9メートルにもなる。大宰府の背後には、佐賀県の基山に基肄城きいじょうが築かれた。→ 基肄城跡雷山の神護石


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百間石垣2