奈良
當麻寺の二十五菩薩練供養会式−葛城市當麻−
當麻寺の聖衆来迎練供養会式
 大和の二上山の麓に當麻寺という古刹がある。曼荼羅堂(本堂)手前の左右に金堂と講堂を配し、曼荼羅堂の対面に娑婆堂、金堂左手の上下(東西)に重層の伽藍が遺る。寺の創建は白鳳11(681)年。ペアの三重塔や梵鐘はわが国最古、灯籠などにも古色を偲ばせる。寺の近くに恵心僧都の生誕地である良福寺という在所がある。
 二上山の東麓に建つ當麻寺一帯は大和盆地の西域、夕陽が沈むところにある。そこは旅人に二上山上に葬られた大津皇子の哀話や中将姫伝説が重なり、何かしら霊気を感じさせるところだ。
 當麻寺はもともと三論宗を奉じる寺院だった。弘法大師との縁から真言宗に転じ、さらに鎌倉時代ら真言・浄土の二宗が並立する稀有な寺院として現在に至り、境内の塔頭は八カ寺に及ぶという。
 當麻寺の聖衆来迎練供養会式は日本最古の練供養として知られる。大和や京都、大阪、東京などの寺院において練供養を行うところは多いが、當麻寺はその最古のものといわれる。練供養は當麻寺に入山した藤原豊成(横佩右大臣)の娘中将姫が蓮糸曼荼羅を織り成し、聖衆の来迎を得て生身往生を遂げるさまが曼荼羅堂と娑婆堂の間に架けられた桟道上で再現される宗教劇。ストーリーの根本は鎌倉光明寺の當麻曼荼羅縁起絵巻の詞書に写されている。當麻寺練供養由来記によれば、練供養の起源は比叡山横川の僧侶恵心僧都が曼荼羅に帰依し、寛仁元(1017)年に二十五菩薩の装束と面像を當麻寺に寄付した事に始まる。有名なドイツ・オーバーアマガウのキリスト受難劇の起源が17世紀であることを思えば、當麻寺のそれは途方もなく長い曼荼羅信仰の歴史を感じさせる。故郷良福寺で二上山に沈む夕陽を見て育った恵心僧都であったから、中将法如の跡を追い、生身往生を遂げることに特別の思いもあったのだろう。平安時代から始まり古儀を変えることなく厳修する當麻寺練供養。室町時代に世阿弥が「雲雀山」や「當麻」で謡い、江戸時代に大近松が劇作にしるした當麻寺練供養は畿内一円にとどまらず、全国の道俗に知られるようになった。
 中将法如の命日は宝亀6(775)年3月14日。當麻寺練供養はその命日に因み旧暦3月14日に行われてきたが新暦になり4月14日に、また季節感覚も影響したのか現在は毎年、5月14日に行われる。その遷移につき諸説あるが、私は実見して太陽が西に傾き曼荼羅堂の真上にかかり、中将法如の命日が重なる5月14日が最適の日とされたのではないかと想像する。供養はその日の午後4時から始まる。
 練供養の当日、當麻寺山内の護念院は朝から菩薩講中の出入りで忙しい。門前に掲げられたオオヤマレンゲの写真は荘厳花に相応しい花。講中の者は院内で中将法如寿像や菩薩面を礼拝し、練供養への緊張感と喜びを満面にたたえその時を待つ。境内の桟道周りは拝覧の群衆で溢れ、金堂や講堂の基壇には特別の拝覧桟敷が設けられいまかいまかと聖衆の来迎を待つ。
 午後4時、曼荼羅堂の真上にさしかかった太陽が堂の甍に沈みはじめるころ、護念院から曼荼羅堂に遷座した中将法如寿像は、一山の法要の後、僧侶に導かれ、担がれて桟道を往き娑婆堂に遷座。会式は浄土宗の行事であるが、真言並立の當麻寺では鐘の合図で真言宗側が曼荼羅堂内から出て、堂に向かって右側の廻縁に設けられた舞台に移動し、威儀をただし楽器を演奏し、緩やかな念仏の音律をあやなし、会式の荘厳を浮揚する。宗教宗派の排他性は一般には世界共通の観念であるが、二宗が協調した當麻寺のそれは阿弥陀経に説く六方諸仏の証誠を具現化したものであろう。
 中将法如寿像の娑婆堂への道行きに続き、僧侶に導かれた稚児、次に荘厳服に威儀を正した奥院、護念院、念仏院の住職が僧侶を引具して物々しく進み、その後をいよいよ来迎聖衆が繰り出す。天人二人が先行し、錫杖を曳いた地蔵菩薩、龍頭菩薩が続く。その後ろへ金色に燦々と輝く面像の二十五菩薩が次々と続き、蓮台を掲げた観音菩薩、合掌姿の勢至、普賢の各菩薩が整然と厳かに往く。数十メートルもあろうか、長い桟道を往き天人が娑婆堂に着いた頃、もう堂内では来迎和讃が読み上げられている。スピーカーから聞こえる来迎和讃は特異な節回しの當麻節でうたわれる。次々と菩薩が入堂し、後尾から娑婆堂内に入った観音菩薩によって中将法如寿像の体内から小さな勢至観音像が救いとられ、観音菩薩が護持する蓮台に遷座する。この勢至菩薩像こそ生身の中将法如である。この世に充てられた娑婆堂で救いとられ勢至菩薩に姿を変えた中将法如は、いよいよ極楽に当てられる曼荼羅堂に向かう。
當麻寺の聖衆来迎練供養会式
 極楽(曼荼羅堂)への帰り道は来迎の逆になり、観音菩薩を先頭に勢至、普賢の各菩薩と続き、最後尾は救われた中将法如の亡骸(中将法如寿像)の順。堂を出て次々と桟道に勢揃いした二十五菩薩。一幅の仏画のように美しいものだ。蓮台に勢至菩薩を載せ先頭を往く観音菩薩。恭しく、蓮台を高く掲げ或いは横手に差出すように行きつ戻りつするようにして法楽の動作を繰り返す。続く勢至菩薩も合掌姿で手を掲げ或いは横に回し歓喜の情抑えがたい身振り手振りで、徐々に曼荼羅堂に向かう。桟道周りの善男善女は手を合わせ、一山のあちこちから念仏の声がすすり聞こえる。このころ、練供養は最高潮に達し、日は暮れかかる。一行は曼荼羅堂で真言宗徒の燈明席から音楽で迎えられ練供養は完了する。
僧あさがほいく死にかへる法の松 <芭蕉>
 松尾芭蕉が野晒紀行でよんだ法の松は中之坊門前にあって来迎の松として知られていたが、今は枯死しその姿をとどめてはいない。しかし、句がよまれるほどに当麻寺練供養は世に聞こえ、善男善女が拝覧の機会をのぞんだものだった。−平成23年5月14日−