奈良
漢国かんごう神社の鎮華はなしずめ三枝さいぐさ祭−奈良市漢国町−
ササユリの献花
清和四条流庖丁
  奈良市内に漢国神社という古社がある。わが国の饅頭の祖神である林浄因(りんじょういん)が同社の境内社に祀られ、例年、4月19日に行われる饅頭祭できこえた神社である。
 例年、6月17日は同社の鎮華・三枝祭。三枝はササユリをあらわす。祭の当日、神前にササユリが供えられ(写真左)、社殿脇の石舞台で清和四条流の庖丁人によって真魚箸庖丁(まなばしほうちょう)が奉納され、調理された魚が熟餞(じゅくせん)として神前に供えられる。
 庖丁人は清和四条流の伎人。四条流の創始者は藤原山蔭(平安時代の公卿。従三位中納言)である。平安時代に清和朝に仕え、従来の包丁式(調理方法)を編み直し、公家に尊ばれた。
 清和四条流の包丁式は、鉄製の真魚箸と庖丁を両手に持ち、俎(まないた)の上で手を一切使わず、狩衣・烏帽子姿の装束で、厳重な作法に従って調理が行われる。半紙1枚も手を用いて切ることはない。例祭当日は、鯉を材料にして調理は行われ、三方にもり神前に供えられた。同派の式包丁の切型は数十種にも及び、精進の積み重ねによってのみ維持されるという。
 漢国神社における鎮華・三枝祭と式庖丁の奉納の結びつきの起源はよくわからないが、同社ではもともと神事に熟餞を用い、かつ漢国神社の祭神が清和天皇の貞観元(859)年に宮中に勧請された縁などから、いつのころからか鎮華・三枝祭の日に式庖丁が奉納されるようになったのだろう。
漢国神社の鎮華・三枝祭
熟餞の盛付け 熟餞の奉納

真魚箸神事のこと
 手を使わず魚を調理し、神前に供える真魚箸神事は、神社の正月行事として地域の頭屋に受け継がれていることが多い。島根県の美保神社(松江市)の真魚箸神事がよく知られている。真魚箸は樫の木。清和四条流の包丁式に用いられる箸は鉄製のものが使用される。
 神前に調理した供え物、いわゆる熟餞を用いる神社では、一定の式を整えた真魚箸神事が古くから行なわれていたのではなかろうか。しかし、時代の変遷とともに、丸ものを供える神社が増え、真魚箸神事の必要性が薄れ、かつ技術の伝承が難しく、氏子への公開非公開にかかわらず多くの神社で廃絶になったものと思われる。

鎮花祭と三枝祭
 四季は巡り、春になるといっせいに万物が活性化し、野山は色づき花が咲く。そのころ昔の人は野にでて薬猟(やくりょう)を行った。万葉集に額田王が近江の蒲生野で催された薬猟の際、大海人皇子と交わした相聞歌がよく知られている。古くは推古天皇19(611)年5月5日、兎田野(奈良県宇陀市榛原区)で薬猟が行われたことが万葉集から推認できる。
  かきつばた 衣にすりつけ ますらをの きそひがりする
  月はきにけり (万葉集)
 薬猟の日は、野に戯れ百草の薬草を摘み、摘み取った薬草は薬玉(くすだま)にして蓄えた。薬草を束ね5色の糸をとおして肘にかけると病気をしないという迷信を生み、またナデシコ、サツキ、アジサイ、ハナタチバナなどを丸め、その中に麝香、沈香などの香料を加え薬玉に作り、秋口まで柱などに吊るし無病息災を願った。
 花が散りはじめる晩春のころ、外界から疫病神が来襲したり、花粉に乗って疫病が流行るという俗信が生まれた。軒端から疫鬼が家の中をうかがう様子が春日権現記絵巻などに描かれている。
 令義解 神祇令第六〈養老令の官撰注釈書。天長10(833)年成立。大宝律令及び養老律令ともに散逸しているが、令義解から養老令(大宝令)が復元されている〉によれば、四季の祭につき、‘天神地祇は・・・常典に依りて祭れ’とし、具体的には季春の祭として鎮花祭(はなしづめのまつり)を揚げ、‘・・・大神(おおみわ)、狭井(さい)の祭なり。春の花飛散する時において、厄神分散して(れい)を行ふ。その鎮圧の為に必ずこの祭りあり。故に鎮花といふ。’と説き、孟夏の祭として三枝祭(さいぐさのまつり)を掲げ、‘・・・率川社(いざかはのやしろ)の祭なり。三枝花を以て、酒吹iみか)に飾りて祭る。故に三枝といふ。’と説いている。鎮花祭、三枝祭の趣旨を規定し、鎮花祭は大神、狭井の各社に倣って、三枝祭は率川社に倣って全国各地の社でこれらの祭が行われるようになっていく。科学的知識を持たなかった時代においても、疫病の伝染性や花粉の飛散による発病、梅雨時期の疾病が経験的に知られ、その鎮撫を願ったのである。方丈記に養和元(1181)年の飢饉・疫病について‘45両月の間に京都の東の京の死者4万2300余'とあり、また碧山日録によれば寛正2(1461)年の飢饉・疫病について、‘鴨川の四条の橋より上をみれば、死屍累々たる有様にて、正月2月の京中の死者8万2千を数えたり’とある。飢饉や疫病の猛威のほどが知られよう。
 鎮花祭など奈良の古い祭りは、地方に伝播ししだいに土俗の田遊びや念仏行事或いは御霊信仰(人の怨霊が疫病もたらす)などと結び付き、さまざまの形態の祭りをうみ出していく。京都・紫野の「やすらい祭」(今宮神社。例年4月)は花の散るのを疫病の予兆とみて、疫病をもたらす怨霊を鎮めるために「やすらえ花や・・・なまえだ(南無阿弥陀)」と念仏歌を唱え、鎮花祭の古を滲ませている。壬生大念仏や千本大念仏など京の大念仏は能、狂言や手踊りなどの影響を受けつつ念仏の功徳を具体化したもの。それをさらに娯楽化した六斎念仏などの風流へと分枝する。怨霊は人に祟りを与えると考えられたように、虫や水、田の神などは田の実(米)の発育に影響を与え、時に脅威となる。虫送り、水神祭、雨乞(祭)、田の神祭などの芸能を生み、また散楽などの影響を受けつつ娯楽化した田楽は貴族社会にも影響を与えていく。念仏の知識はさらに優れた仏教者によって在来の日本人の生死観と結び付け念仏踊りを生み、盆踊りの起源と考えられる。やすらい祭、念仏踊、六斎念仏(棚経)、天衝舞浮立など念仏芸の道行をみると、宿となるところから行列を作り、寺社や新仏や篤信者宅など有志の家庭を巡り、辻や広場など要所で輪になって踊り、元の宿に戻る形をとるものが多い。この習俗もまた、念仏芸を基本としつつ古い時代の群行祝福といった神遊びの伝統を受け継ぐものであったり、来訪神饗宴の名残りを滲ませるのである。
 さてまた、令義解は夏季の祭のひとつに道饗祭(みちあえさい)をあげ、‘・・・卜部等、京城の四隅の道の上において祭る。言うは、鬼魅の外より来る者をして、敢えて京師に入らざらしめむと欲す。故に預(かね)て道に迎へて饗(あへ)しとどむるなり。’とその趣旨などを述べている。京師の四隅では、八街比古(やちまたひこ)、八街比売(やちまたひめ)、久那土(くなど)を祀った。八幡の石清水八幡宮の青山祭(疫神祭)や宇治の「県神社」の宇治祭(京都府宇治市)などは、今でも道饗祭の古式をとどめているように思う。−平成22年6月−

参考:九州 福岡 博多祇園山笠 筥崎宮の放生会 玉せせり 玉垂宮の鬼夜 婿押し(春日神社) 博多どんたく みあれ祭(宗像大社) 小倉祇園太鼓 佐賀 市川の天衝舞浮立 唐津くんち 四国 愛媛 七ツ鹿踊り 南予の秋祭り  保内の四ツ太鼓 和霊神社の夏祭り 香川 牟礼のチョーサ 四国の祭り 梛の宮秋祭り ひょうげ祭り 小豆島の秋祭り 徳島 阿波踊り 中国 広島 安芸のはやし田 壬生花田植 豊島の秋祭り  ベッチャー祭り 三原やっさ祭り 岡山 西大寺会陽 近畿・京都 湧出宮の居籠り祭 松尾祭 やすらい祭 木津の布団太鼓 祇園祭  田歌の祇園神楽 伊根祭(海上渡御) 三河内の曳山祭 大宮売神社の秋祭り 籠神社の葵祭り 本庄祭(太刀振りと花の踊り)  紫宸殿楽(ビンザサラ踊り) からす田楽 大阪 八阪神社の枕太鼓 四天王寺どやどや 杭全神社の夏祭り 粥占神事 天神祭の催太鼓 生国魂神社の枕太鼓 天神祭の催太鼓 秋祭り(藤井寺) 南祭 枚方のふとん太鼓 科長神社の夏祭り 岸和田のだんじり祭り 奈良 龍田大社の秋祭り 大和猿楽(春日若宮おん祭) 奈良豆比古神社の翁舞 當麻寺の練供養 漢国神社の鎮華三枝祭 飛鳥のおんだ祭り 二月堂のお水取り 飛鳥のおんだ祭り 唐招提寺のうちわまき 国栖の奏 滋賀 麦酒祭(総社神社) 西市辺の裸踊り 多羅尾の虫送り 大津祭 北陸 福井 小浜の雲浜獅子 鵜の瀬のお水送り