京都
壬生寺の節分会−京都市中京区四条坊城南入ル−
 日本には節分の日に、寺社に詣でる風がある。底冷えのする洛中に、特にそうした風を伝える寺社が多い。
 中京区の地名にもなっている壬生寺という律宗の別格本山がある。寺伝では天平宝字5(761)年、聖武天皇の勅を奉じて過海大師が建立したとあるが、一般には、西暦2(991)年に三井寺の快賢僧都の開基といわれる。
 寺は、壬生大念仏会(通称壬生狂言)で広く知られたところである。融通念仏桶取記によれば、壬生狂言は同寺中興の円覚上人によって、融通念仏の妙理を説く方便としてつくられたと説き、正安2(1300)年に修せられた。無言劇で、壬生念仏、壬生踊りとも称される。踊りそのものは猿楽、田楽系統のものであるからそれらが念仏踊りと融合し、発展したものではないだろうか。本殿脇に狂言堂があり、随分高い舞台である。年中行事大成所収の図絵(写真左下)をみると、舞台周りに小屋掛けがみえ、壬生大念仏会の狂言は洛中の名物としてきこえていたのだろう。
    狂言は南無ともいはず壬生狂言  <大祗>
    永き日を言わで暮るゝや壬生念仏 <蕪村>
 壬生狂言は、寺の講中の人によって演じられる。その態は無言である。囃子は一種の鰐口のような鉦、太鼓、笛を用い、かんでんかんでん、かかかんかかかん、かんでんでんと響く拍子に合わせて踊る。狂言の最初は猿、最終に棒振を演じるのが古式という。「桶取」の足取は壬生寺の本尊地蔵菩薩の種字(梵字・カ)をなす秘中の秘事という。終戦前、50番程演じられたかと思うが、次第に減り今は30番である。桶取、焙烙割、盗人、狐釣、道念、大江山、禰宜山伏、猿座頭、角力、大原女・・・等々。節分会の日(節分の日と前日)、午後1時から8回(入替え)、「節分」が奉納され、大勢の参拝客で賑わった。狂言の公開は、例年、春と秋に行われている。
 壬生節分会の日、参道は出店がテントを連ね、焙烙(ホウラク)鍋に己の名前、生年を記し寺に納め、厄除け祈願をする人々で賑わっている。壬生狂言の焙烙割はこの鍋を取り出して割るというものだ。その断片を拾って身につけると疱瘡などの疫病にかからないという信仰を生んでいる。本堂の前では護摩(節分の前日)が焚かれている。その向こうで壬生寺千体仏塔が天を衝いている。−平成20年2月−

洛中の念仏会
 京都市中には壬生(壬生寺(みぶてら))、嵯峨(清凉寺)、千本(引接寺(いんじょうじ)で大念仏会が行われ、これを洛中の3念仏という。いずれも念仏狂言の古風を伝え、法会の時期や念仏狂言をつとめる者の構成等にそれぞれ伝統がある。千本大念仏は府下から入門者を受け入れ、伝統保持に開放的なところもあるようである。公演は壬生、嵯峨は春秋2回、千本は春1回であるが、狂言の教育的な見地から来演要請もあるようであり、不定期公演もある。
 大念仏狂言の曲目は三念仏とも同種のものが多いが、嵯峨大念仏における北嵯峨踊りや愛宕参りなど固有の曲もある。伴奏は鰐口、締太鼓、横笛くらいで簡素かつ古風。黙劇(無言劇)であるが、千本大念仏のみは科白(せりふ)がある。
 洛中三念仏の起源はいずれも13、4世紀とされ、壬生寺中興の祖・円覚上人が念仏の真意と功徳を大衆に伝える手段として編み出された。その所作や千本念仏の科白などから考えると、猿念仏狂言は猿楽、田楽系統の踊りを取り入れ始められたものであろう。念仏狂言が始まった鎌倉末期頃になると庶民が力を蓄え、宗教が多様化する。曲中には勧善懲悪や大衆の道徳観や笑いすら織り込まれ、その感性は現代にも通じ違和感がなく面白く鑑賞することができる。近世への扉はこのころ芸能面でも開かれていくのである。