住吉の御田−大阪市住吉区−
 
大阪湾に淀川、大和川の二つの河川が河口を開く。昔、少し上流で迂回していた大和川は藩政期に今の姿に変わり淀川の南にある。河内から亀の瀬を超えると大和(奈良県)。飛鳥京、藤原京、平城京の故地に通づる重要河川。
 その川に接するように住吉津(住之江)が拓け住吉大社が鎮座する。古代の住吉津は難波津、御津とともに大津を成し古来、宮城や大寺が営まれた大阪上町台地の南端に位置する。
 大社は神功皇后ほか3神を祀る古社。国家鎮護の神、和歌の神、武神として、平安時代にはるばる京都から住吉詣が行われ、今日庶民の住吉参りが絶える日はない。古来、特に航海守護の神として海を職場とする人々の崇敬を集めている。
 住吉浦に上陸した人々は、高灯篭に沿って延々続く参道を行き、陽が落ちてますます喧騒さを増す常夜燈の放列に商都・大阪の繁栄を実感し、彼方の住吉っさんめがけてひたすら歩いたことであろう。
 干鰯仲間、北l国積木綿屋中、阿州藍玉大阪積等々それに名を刻んだ神社講中の燈籠は、その巨大な燈籠そのままに日本の経済をほしいままにした巨商たちだった。備前岡山有志から陶製の狛犬の大物(写真上)が奉納されている。慶応年間のもので四国の金比羅宮の狛犬とどっこいどっこいの巨大なもの。無論、備前焼きであろう。
 伊賀上野を立ち大坂に旅路した俳人芭蕉は‘升買て分別変わる月見かな’と住吉を詠うている。升は住吉の宝の市の名物、升酒でほろ酔い気分の月見であったのだろう。


 例年、6月14日は住吉大社の御田植神事(御田祭)の大祭日。御田植祭を関西では一般に、御田祭と言っている。住吉大社のそれは親しみを込めて`すみよっさんのおんだ`と大阪人はいう。
 おんだは五穀豊穣を予祝(祈念)する祭。社殿や境内で行うところもあるが、住吉大社のそれは2反余の御田(神田)で斎行される。
 おんだのはじめに神官によって田の清祓いが行わる。飾鞍に綿の花を着けた斎牛(但馬の2歳牛)による`代掻き(しろかき。まぐわかきとも)`が斎行される中、
 祭の諸役が行列を組み神田周りの行路(あぜ道)に練り込む。行列は供奴、貝吹、風流武者、金棒、楽人、神職、八乙女やおとめ稚児ちご御稔女みとしめ植女うえめ。胸に早苗を抱く、奉耕者、替植女(農家の成人女性など)、住吉踊(氏子の小中学生)の順で、神田周りを一周する。
 植女は昔、新町廓の芸妓が奉仕した。衣装の絢爛さと凛とした物腰がこの祭りの品位を一層、際立たせている。花笠に廻し、飾りつけた綿の花は、舞台中央に据えられた天蓋(花笠)にも飾られ雷避けという。新町廓の揚屋(あげや。割烹料亭)は京の島原、長崎の丸山を凌駕する店構えで、太夫は遊芸のみならず高い学芸をあわせもち茶屋には出仕せず別格の格式。目をむくような花代もまた別格だった。
 諸役が一巡すると、神田の中央に張り出した仮設舞台で植女と替植女が相対し、早苗の受渡しが行われすぐに替植女による田植が始まる。
 田植が斎行される中、まず八乙女の田舞、御稔女による神田代舞みとしろまいが奏せられる。観覧者の目はしばし、舞台のに釘づけ。
 神田代舞が終わると風流武者が紅白に分かれて陣鐘、太鼓、ほら貝などを打ちならし、六尺棒を打ち合う棒打合戦が斎行され、次に植女踊、住吉踊が奉納され、田周りでは小中学生による植女踊、住吉踊が奉納された。 

 これら御田植神事中、八乙女の田舞と住吉踊は芸系のふるさと遷移に注目すべきであろう。
 田舞は八乙女(8人)が頭に菖蒲の花飾りを付けて舞う。日本書紀は天智天皇10(671)年5月、「天皇、西小殿に御す。皇太子、群臣宴に侍る。是に、再び田舞を奏る。」としるしている。田舞の起源を大陸に求めていないから、住吉大社の創建が神話時代に遡る来歴と重ねると、田舞の手振りと歌はひょっとして稲作にまつわる神事としてその始まりと相前後して創始された可能性もある。
 舞は日本民族の豊穣への祈りの姿。だからこそ不変の神楽としてこの大社に存在するのだろう。遠目にも神楽を奏す神子の緊張感が伝わってくる。田楽との連想から田舞は平安時代ころに完成されたものにせよ、既述のとおり原形はもっともっとも古いものであろうと思われる。社伝は1800年の歴史があると説いている。
 住吉踊もまた、住吉詣をうながし、本邦の津々浦々に末社ができ、特に海浜の守護神として営々と住吉信仰が息づいた証として注目されるべきであろう。戦国時代以降、住吉神宮寺の社僧によって、藩政期には願人坊という芸能家が諸国巡歴し住吉踊を披瀝して住吉代参の功徳を説いたのである。それら諸芸によって住吉信仰のみならず各地の浮流芸の発展にも貢献したことはいうまでもない。
 御田祭の住吉踊では頭に一文字笠の周りに赤布を垂れた特異な笠をかぶる。装束は、白衣に黒の腰衣、白の手甲、脚絆(きゃはん)に白足袋、藁草。手に大きなうちわを持ち、音頭取の歌に合わせ、団扇を打ちながら跳躍して踊る。 音頭取りはてっぺんに紙垂をつけた長柄の笠の柄を割竹(ササラ)で叩きながら歌う。念仏踊りの芸系に属するものであろう。それにしてもこの種の行事で、これほど演者の多い芸能は植女踊とともに稀有である。これもまた近在の氏子の篤い住吉信仰の証であるに違いない。
 まつりが終わる頃、田面にはツバメが飛び交い、かすかに田の草が浮き始めた。来月早々には、大阪市中の各社で夏祭りがはじまり、住吉大社の南祭でフィナーレとなる。−平成20年6月14日−
住吉大社の御田祭

住吉の御田祭雑感
 御田植祭は年始や田植時期(5、6月ころ)に行われる。
 牛や農具を使って稲作作業の一部始終を実演することによって神霊に感染させる豊作の予祝行事。早乙女が鉦太鼓の音曲にあわせて田植を行う田楽の芸系に属する芸能である。
 淡淡と農作業の模擬作業を行う御田から出産を演じたり、夫婦和合の描写を交えるものなどがある(文末の記事一覧参照)。枕草子の記事などから平安時代のころには大体、芸能の域に達する御田もあった。
 住吉大社の御田の場合、大都会の派手さをウリにしたものと思うムキもあろう。田舞を奏する神子(巫女)を八乙女と称し、実際の田植は植女と称する芸妓(背景写真。今日では替植女)が行うのでそのような誤解もある。
 住吉大社の御田は神代にも遡る相当古い歴史があり、神事として受け継がれてきた行事である。畢竟、東大寺の神宮寺手向山八幡神社の御田植祭では早乙女に巫女が充てられ、田植のしぐさを行う。住吉大社の御田においてももと巫女が田植を行っていたが、いつのころからか熊野比丘尼のような諸国を歩いて祈祷や勧進、遊芸を行う巫女(仮に「漫遊巫女」と称す。)に置き代わり植女と称されるようになった可能性もあるだろう。つまり早乙女の置き代えによって神社所属の本来の早乙女は八乙女(8人の巫女の意か?)として田舞を奏じ、田植は漫遊巫女たる植女へと分担が変わり、さらに漫遊巫女がいなくなると植女は遊芸の芸妓に引き継がれたと考えられないものか。
 住吉大社の気が遠くなるような歴史のうちに御田植神事はある。「すみよっさんのおんだ」こそ古体を伝承する稀有な御田と言えそうである。
手向山八幡神社の御田植祭−奈良市雑司町−
子出来おんだ祭(御田植祭)−磯城郡川西町保田−
飛鳥のおんだ祭り−高市郡明日香村−
大和神社の御田祭−天理市新泉町−
多賀神社の御田植祭−犬上郡多賀町多賀−
壬生の花田植−山県郡千代田町壬生−
安芸のはやし田−北広島町大朝−

参考:九州 福岡 博多祇園山笠 筥崎宮の放生会 玉せせり 玉垂宮の鬼夜 婿押し(春日神社) 博多どんたく みあれ祭(宗像大社) 小倉祇園太鼓 佐賀 市川の天衝舞浮立 唐津くんち 四国 愛媛 七ツ鹿踊り 南予の秋祭り  保内の四ツ太鼓 和霊神社の夏祭り 香川 牟礼のチョーサ 四国の祭り 梛の宮秋祭り ひょうげ祭り 小豆島の秋祭り 徳島 阿波踊り 中国 広島 安芸のはやし田 壬生花田植 豊島の秋祭り  ベッチャー祭り 三原やっさ祭り 岡山 西大寺会陽 近畿・京都 湧出宮の居籠り祭 松尾祭 やすらい祭 木津の布団太鼓 祇園祭  田歌の祇園神楽 伊根祭(海上渡御) 三河内の曳山祭 大宮売神社の秋祭り 籠神社の葵祭り 本庄祭(太刀振りと花の踊り)  紫宸殿楽(ビンザサラ踊り) からす田楽 野中のビンザサラ踊り 矢代田楽  大阪 八阪神社の枕太鼓 四天王寺どやどや 杭全神社の夏祭り 粥占神事 天神祭の催太鼓 生国魂神社の枕太鼓 天神祭の催太鼓 秋祭り(藤井寺) 住吉の御田 住吉の南祭 枚方のふとん太鼓 科長神社の夏祭り 岸和田のだんじり祭り 奈良 龍田大社の秋祭り 大和猿楽(春日若宮おん祭) 奈良豆比古神社の翁舞 當麻寺の練供養 漢国神社の鎮華三枝祭 飛鳥のおんだ祭り 二月堂のお水取り 飛鳥のおんだ祭り 唐招提寺のうちわまき 紅しで踊り 糸井神社の秋祭り 国栖の奏 西円堂の追儺会(法隆寺)  滋賀 麦酒祭(総社神社) 西市辺の裸踊り 多羅尾の虫送り 大津祭 北陸 福井 小浜の雲浜獅子 鵜の瀬のお水送り